弾圧と名誉回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/04 14:11 UTC 版)
「マリヤ・グリンベルク」の記事における「弾圧と名誉回復」の解説
ロシア・ピアノ楽派の重要人物としての活躍が見込まれた矢先の1937年、夫と父親が「人民の敵」の烙印を押されて逮捕され、処刑されてしまう[要出典]。グリンベルク本人も、国によるマネジメントから外され、アマチュアのバレエ団の伴奏者として、時にはオーケストラのティンパニ奏者として糊口を凌がなければならなかった。その後ソリストとして再び名を揚げ、モスクワ中で引く手あまたのピアニストとなると、レニングラードやリガ、タリン、ヴォロネジ、トビリシ、バクーなどソ連の各都市で演奏会を開いた。 スターリン没後に50代を迎えると、外国行きが認められ、合計14回にわたって演奏旅行を行なった。そのうち12回はソ連の衛星国でのものだったが、2回のオランダ訪問は、国を挙げての歓迎ぶりであったという。61歳のとき、グネーシン音楽学校の教授に迎えられるが、モスクワ音楽院の教授職やチャイコフスキー国際コンクールの審査員席からは締め出されたままだった。
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