20世紀初頭:改革への志向と革命による頓挫
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「20世紀初頭:改革への志向と革命による頓挫」の解説
19世紀の間に明らかになった教会の諸問題を解決するための改革を求める声は、聖職者・神学生・信徒等の間から広範に起こっていた。改革を求めていたのは信徒や下位聖職者のみではなく高位聖職者も同様であり、皇帝に謁見可能ではあるが聖務会院総裁の許可なしに皇帝に要望を伝えることを許されなかった高位の主教達は、皇帝に贈るイコンに教会側の要望を伝える手紙を添付するなどしていた。 この時代において、ピョートル大帝によって廃止されて久しかったモスクワ総主教座の復活(これは国家機関たる聖務会院による教会に対する硬直的な統制の抜本的見直しと、教会法上の正常化を意味する)、極貧にあえぐ農村司祭(殆どが妻帯司祭)の生活の向上、上層部指導者達の腐敗の一掃などといった組織上の問題の他、教会の精神面の復興が改革の課題とされ、対処の方策には様々な見解の差異があったものの、問題意識は広く共有された。 これらの声は公会議の開催要求に結びついていった。当初は公会議開催に難色を示していた聖務会院であったが、聖務会院総裁に改革に否定的なコンスタンチン・ポベドノスツェフに代わってオブレンスキー公が就任するとともに、10人の府主教、21人の神学大学の教授が集まり、公会議実現に向けて準備が進められていた。しかしながら公会議開催の準備の時期に前後して第一次世界大戦が勃発し、ニコライ2世が戦争にかかりきりになるとともに、公会議開催は遅れた。 公会議開催が実現したのは帝政が終焉を迎えた1917年である。公会議により、モスクワ総主教座が2月革命後の1917年6月に復興した。ただし改革を志向する公会議開催は帝政下で長期間にわたり準備されていたものであり、革命によって帝政が崩壊したことが公会議開催に結びついたわけではない。ロシア正教会における前例のない規模での公会議開催は出席者の範囲設定とその確保、議事進行のあり方、教会伝統の検討など、様々な面で膨大かつ綿密な準備を必要としたものであり、帝政が崩壊した直後に一朝一夕に実現可能なものではなかったからである。 公会議では総主教制の復活が決議されたほか、女性輔祭制度の復活なども真剣に討議された。しかしながら革命と内戦による社会的混乱と、その後の革命政府による教会に対する弾圧により、公会議などによる改革への動きはモスクワ総主教座の復活を除き殆ど頓挫した。 2月革命後に成立したロシア臨時政府は、聖務会院と同様の教会に対する統制を引き継ぐことを企図したが、その後短期間で臨時政府が崩壊し、無神論を掲げるボリシェヴィキが実権を握る。これはロシア正教会に対する大弾圧の始まりとなった。教会は改革どころではなくなり、何よりもまず生き残りを目指すことを余儀なくされた。
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