20世紀初頭の進歩主義時代:ブライアンとウィルソン
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「20世紀初頭の進歩主義時代:ブライアンとウィルソン」の解説
1896年の大統領選挙における共和党の勝利は「進歩主義時代」の始まりを告げ、1932年まで共和党の優位が続くことになる。この間、共和党は北東部と中西部のほとんどと西部の半分を支配した。 1900年の民主党全国大会では、南部と平野部を地盤とするブライアンが依然として強い人気を誇り、大統領候補の指名を受けたが、再びマッキンリーに負けた(1900年アメリカ合衆国大統領選挙)。1904年の民主党大会ではブライアンに反対する保守派が主導権を握り、アルトン・パーカーを候補者に指名したが、共和党の現職大統領セオドア・ルーズベルト(1901年のマッキンリー死去に伴い昇格)の前に大敗した(1904年アメリカ合衆国大統領選挙)。20世紀初頭のこの時期、政治はルーズベルトの支配下にあり、民主党はトラストを取り締まるという公約をルーズベルトに「横取り」されるという歯がゆい思いをした。ブライアンは銀貨自由鋳造政策や反帝国主義的言辞を捨て、所得税課税や反トラスト、上院議員の直接選挙等、主流派進歩主義の主張を支持し、1908年の党大会で再び大統領候補指名を獲得したが、選挙ではウィリアム・タフトの前に敗れた。 関税をめぐる共和党内部の深刻な対立により優位に立った民主党は、1910年の下院選挙で勝利し、1912年と1916年の大統領選挙でも民主党候補の知識人改革者ウッドロウ・ウィルソンが勝利した。ブライアンもウィルソンの支持に回り、ウィルソン政権の国務長官に指名されたが、1916年、ウィルソンの反平和主義的政策に反対し、辞職した。 ウィルソンは進歩的な法案を次々に成立させ、関税引き下げや、より強化された反トラスト法、新しい農業計画、鉄道労働者の賃金引き上げ、児童労働の非合法化(最高裁によって覆された)を実施した。他方、南部出身の閣僚が提出した連邦政府職員の人種隔離政策は甘受した。さらに二期目では、超党派による禁酒と女性参政権の付与に関する憲法の修正を成立させた。また、40年間にわたって政治課題であった関税、貨幣、および反トラストの問題を事実上、葬り去った。北部の民主党員は大半の課題において進歩的政策を支持していたが、一般的に禁酒法には反対し、女性参政権に関してはほとんど無関心で、大都市の集票組織(マシーン)においてリーダーが独裁的にものごとを決めるボスシステム(英語版)の改革にも乗り気ではなかった。 ウィルソンは第一次世界大戦において米国を指揮し、国際連盟創設を含むヴェルサイユ条約の起草にも参画した。ところが、1919年、ウィルソンの政治的技量は衰えを見せ始め、途端に全てのことが裏目に出るようになった。上院はヴェルサイユ条約の批准と国際連盟への加盟を拒否し、国内ではストライキや暴動が荒れ狂って社会不安が生じ、ついにウィルソン本人も脳梗塞に倒れた。 党内では、文化的問題、特に禁酒法をめぐって深い分断が生まれ、1920年、1924年、1928年と、大統領選挙において民主党は共和党の圧勝を許し続けた。1920年の大統領選挙では、民主党はジェイムズ・コックスを候補に指名したが、これまで党を支えてきたアイルランド系カトリック党員の反対と、ドイツ系党員の棄権により、都市部を中心に、共和党のウォレン・ハーディングに大敗した。1922年の議会選挙ではある程度党勢を回復したが、1920年代を通じて、連邦議会ではかろうじて議席を保つ程度であり、北部のほとんどの州でも弱体化した。1924年民主党全国大会(英語版)では、ウィリアム・ギブス・マカドゥーが選挙戦を優位に進めていたが、これに揺さぶりをかけようと、アル・スミスとオスカー・W・アンダーウッド(英語版)の主導する勢力により、クー・クラックス・クランを非難する決議が提案された。長い議論の後、決議はわずか1票差で否決された。KKK自体は直後に消滅していったが、党内の対立は残った。アル・スミスは1928年の大統領選挙の候補者となり、自らの出身母体であるカトリックの強固な基盤をもとに都市部で善戦した。そして、同年、フランクリン・D・ルーズベルトがニューヨーク州知事に選出され、中央政界に新しい指導者が登場した。
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