20世紀初頭のヒンドゥー・ナショナリズムの創始
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「ヒンドゥー・ナショナリズム」の記事における「20世紀初頭のヒンドゥー・ナショナリズムの創始」の解説
具体的にヒンドゥー・ナショナリズムが始まるのは1905年、イギリスの著名な社会主義者ヘンリー・ハインドマンが発起人となったロンドンの活動家グループインディア・ハウス(英語版)においてであり、ここはヒンドゥー・ナショナリズムとインドの共産主義との接点となった。ここを基盤にヴィナーヤク・ダーモーダル・サーヴァルカル(英語版)はラーマヤーナを引き合いに暴力・武力を含んだ独立闘争を説き、いっぽうガンディーは非暴力の社会改革運動を主張した。 サーヴァルカルは自らの概念をヒンドゥトヴァ(हिन्दुत्व)として提唱し(パンフレットを刊行したのは1923年)、また政治団体(政党)ヒンドゥー・マハーサバー(英語版)(हिन्दू महासभा、ヒンドゥー大会議 といった意味)を創始している(1915年)。 またインド国民会議派においてもLal-Bal-Pal(英語版)と呼ばれた3人、アーリヤ・サマージの影響を受けたパンジャーブ人のラーラー・ラージパト・ラーイ(英語版)、インド中部のバール・ガンガーダル・ティラク(それまでにガネーシュ・フェスティバルやシヴァージー祭典の組織化に成功していた)、ベンガル人のビーピーン・チャンドラ・パール(英語版)らの急進派が台頭してスワデーシー(国産品愛用)運動や、1905年のベンガル分割令などに激しい抗議運動を展開した。オーロビンド・ゴーシュが政治活動をしたのもこの時期である。 サーヴァルカルや「Lal-Bal-Pal」と呼ばれた3人は激しい反イギリス的な姿勢をみせたと同時に、インドの土着性としてヒンドゥーの側面を強調したのが大きな特徴であった。しかしこうした急進派の態度は1906年に結成されたムスリム連盟などと軋轢を生じさせる。さらに第一次世界大戦の後に独立運動の主導権を握り、独自の指導で国民会議派の統一を回復したマハトマ・ガンディーが自らをヒンドゥー・ナショナリストと位置づけたことはなく、ダルマ(Dharma, धर्म, )と「ラーマ・ラージヤ」(Rama Rajya, राम राज्य, 「ラーマの支配」の意味)を自身の社会的・政治的哲学として信じたうえでアヒンサー(不殺生)に基づく非暴力かつ平和主義的な市民的不服従路線を採り、また広げていた。こうしたガンディーの姿勢に飽き足らないひとりにスバス・チャンドラ・ボースがいたが、彼はインドの社会主義の源泉をヴィヴェーカーナンダに求めていた。
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