20世紀初頭: ケンタッキー州洞窟戦争
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「マンモス・ケーブ国立公園」の記事における「20世紀初頭: ケンタッキー州洞窟戦争」の解説
洞窟周辺の不毛なやせ地で農業をして生計を立てることの困難さは、近くの小さな洞窟の土地の所有者に観光開発をもくろむ機会を与えた。そしてマンモスケイブには特別に観光客を引き付ける成功を与えた。「ケンタッキー州洞窟戦争」の期間は、旅行者が落とすお金をめぐって土地の洞窟所有者同士での争いが生じた苦い思い出の時期である。多岐に渡る詐欺の戦術は、訪れる客が目指していたのとは違う個人経営の洞窟へと誘い入れるためのものであった。違う方向へと誘導するサインがマンモスケイブへの道に沿っていくつも置かれた。自動車旅行時代の初期の典型的な戦略は関連する経営者がするもので、観光客の車の踏み板に乗って飛び跳ねながら、マンモスケイブは閉まっている、遥か離れている、崩れた、アクセス不可能だ、などと信じ込ませるというものだ。 1906年に、ケンタッキーのブラウンズヒルでダムと水門の建設がされ、これによりマンモスケイブへ蒸気船でアクセスすることが可能になった。このダムの建設は長期的に洞窟の生物層への影響を与え続けている。また、洞窟探検に大きな意味を持つことが判明した 1909年、ドイツの鉱山技術者マックスケンペルがニューヨーク経由で洞窟にやってきた。ケンペルは工科大学を卒業したばかりで、家族から卒業のプレゼントとして海外への旅行に送り出されていたところだった。本来のマンモスケイブでの滞在は2週間程度の予定であったが、ケンペルは数ヶ月をそこで過ごすことになった。アフリカ系アメリカ人のエド・ビショップの助けを借り、新発見の分まで含めて総延長が数kmに及ぶ洞窟の部分について、特筆すべき正確さで計測調査の結果を出した。伝えられるところでは、ケンペルはまた洞窟に対応してその上を覆っている部分の地表面の調査の結果も提示したという。この情報は、「バイオレット都市入り口」の開口にすぐ後に続いて、洞窟への他の入り口をオープンするのに有益な情報であった。 クロウアン家はケンペルの地図から地形学的な情報をそぎ落とし、そしてそれは現在まで残っているものとして知られている。その地図のうちでも、ケンペルの仕事の部分は洞窟地図製作法の勝利と言えるほどに正確さが際立っているが。1960年代初頭に近代的な探索法の出現までそれらの小道はすばらしい正確さで地図に描かれるということはなかった。ケンペルはベルリンに帰り、それはマンモスケイブの土地から見れば、完全に消えてしまったのと同じことなのである。彼の悲しい運命がこれだと明らかになったのは、21世紀に入ってドイツ人の観光客の一団が洞窟を訪れた後に、ケンペルの家族について調査するのを待ってのことだった。若きケンペルは1917年のちょうど8年後、第一次世界大戦のソンムの戦いの塹壕戦で殺されたのであった。 有名なフランス洞窟探検家エドワードアルフレッドマーテルは1912年10月に3日間洞窟の訪問をした。近くで行われた調査データへのアクセスなしで、マーテルは、洞窟の各位置間で海抜を比較し決定するために、洞窟で気圧の観察をすることを許された。彼は洞窟の高さの層をいくつか明らかに定め、洞窟内のエコー川の水位はグリーン川の水位によってコントロールされていることを正確に記した。マーテルは、1906年のブラウンズヒルでのダムの建設によってかれの水理学的研究を完成させることが不可能となったことを示して嘆いた。彼のマンモスケイブ内での水理についての精密な説明によれば、マーテルはマンモス・ケーブはソルト・ケーブとコロッサル・ケーブにつながっているという結論を提供した。これはマーテルの訪問の60年後まで正しいと証明されないのである。 1920年代の初頭に、ジョージモリソンはクロウアン地所によって所有されなかった土地の上のマンモスケイブへの多くの入口を爆破した。ケンペルやビショップや他の人によって秘密の調査が行われたようだが、洞窟の地理的な延長を決定するのに適した形で出版はされていない、その存在はしたはずのデータと言うものが見つからない。これは、今の時点で振り返ると、クロウアンは年々に渡って自分の所有しているのではない土地の下にある洞窟も観光に使っていたことが決定的である。この時期訴訟も年々に渡って続けられ、洞窟の入り口をどちらが使うのかという、文字通り洞窟の入り口を争う戦いが行われた。 20世紀の初頭、フロイトコリンズは1925年に砂の洞窟で死亡するまでの10年間を、フリントリッジ洞窟群の探求をしながら過ごした。(水晶の洞窟と塩の洞窟の発見はその調査にまつわる最も重要な伝説である。)砂の洞窟の這って進むような狭い通路で彼は、足元に落ちた岩での自由を奪われてしまったのである。コリンズを救えという試みはメディアで大きく話題になった。結果として生まれた注目が、このマンモスケイブを国定公園にする運動を始めようという意見を、ケンタッキーの著名な人物から引き出すことになる。
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