20世紀初期/シーボード・エア・ライン鉄道の成立
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「シーボード・エア・ライン鉄道」の記事における「20世紀初期/シーボード・エア・ライン鉄道の成立」の解説
1900年、ウイリアムの息子のひとり(若いほう)のリーダーシップにより、ジョージア・アンド・アラバマ鉄道のオーナーたちはシーボード・エア・ライン・システムとFC&Pの企業支配力を獲得した。同年4月14日、それらの鉄道の19の子会社を統合し、シーボード・エア・ライン鉄道(Seaboard Air Line Railway、SAL)が設立された。 1900年6月3日、ニューヨーク〜タンパ間の営業を開始した。列車の運営は、ニューヨーク〜ワシントンD.C.間をペンシルバニア鉄道、リッチモンドまでをRFP、タンパまでをSALがそれぞれ担当した。この運行はアムトラックが組織された1971年まで続けられた。同年7月1日、SALはG&A、FC&P、アトランティック・スワニー・リバー・アンド・ガルフ鉄道の運営を正式に開始した。 1904年、前年にSALの子会社となったアトランタ・アンド・バーミングハム・エア・ライン鉄道がアトランタからアラバマ州バーミングハムまでの路線の建設を終えた。バーミングハムは、アメリカ南部最大の鉄鋼生産地であり、SALの路線網の一端として重要な都市であった。 不幸なことに、2600マイルに及ぶ新線は予期していたほどの盛況とならなかった。続いて1907年パニック((英語)Panic of 1907)がアメリカ経済を襲い、SALは翌年、破産した。再建されたのは1915年であった。 アメリカ国内の多くの鉄道と同じように、第一次世界大戦の勃発によりSALは国有化され、1917年12月28日よりアメリカ合衆国鉄道管理局により運営されたこの状態は1920年3月1日まで続いた。 その後、急速に開発されたフロリダへの旅行者の急増に伴い、SALの業績は好調となった。1926年までにはフロリダ州コールマンからウェストパームビーチを経てマイアミ、そしてホームステッドへ向かう幹線が完成した。このフロリダブームは(英語)フロリダの土地ブームによって引き起こされたものだが、このブームが破綻し、さらに世界恐慌が追い打ちをかける形となり、1930年、SALは三度破産してしまった。以後、裁判所が任命する破産管財人により1946年まで運営された。同年、社名をSeaboard Air Line Railroadと変更し(略称はSALのまま。日本語訳としては以前と同じシーボード・エア・ライン鉄道となる。「Railroadとrailwayの使い分け」も参照)、再建された。 再建期間中、旅客の増加を目指した積極的なマーケティングと技術開発により、1939年にはニューヨークとマイアミを結ぶ流線形の列車、シルバー・メティオを運行開始するなどしてSALの財政は建て直された。第二次世界大戦による特需もそれに一役買った。1944年、シルバー・メティオだけで年間800万ドルを超える利益をもたらしたほどであった。この金額は世界恐慌末期の1933年における全鉄道会社の赤字総額に匹敵する。 戦後は、蒸気機関車からディーゼル機関車への転換によるコスト削減に早くから取り組み、SALの幹線におけるディーゼル化は1953年までに完了した。同時期に、CTCも導入し、時間と経費を節約しつつ、安全性の向上も果たした。 しかしながら、1950年代から1960年代にかけて、航空機の発達、トラック輸送、高速道路等の充実により、アメリカにおける他の鉄道と同様、SALの収入は減少に転じた。とりわけ旅客列車において顕著であった。
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