土地ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 15:17 UTC 版)
ネルソン・フェルというイギリス人がディストンの広告から説得され、フロリダで一儲けしようと1880年代にやってきた。フェルはトホペカリガ湖近くの12,000エーカー (49 km2) の土地を購入し、ナークーシーと呼ぶ町を設立し、1888年には200人以上のイングランドからの移民が入っていた。その後に大きな不幸と英米関係の緊張が起こり、フェルはシベリアのインフラ建設に数年間を費やしたが、1909年にはフロリダに戻って来て、中央フロリダの湿地を開発する構想を抱いていた。州知事ナポレオン・ボナパルト・ブロワードが1904年の選挙運動でエバーグレーズから排水するという政治約束にさらに促された。1910年、フェルは118,000エーカー (480 km2) の土地を1エーカー当たり1.35ドルで購入し、フェルスミア農園会社を立ち上げて1911年にはセントジョンズ沼の排水を行い、その水はインディアン川ラグーンに送って計画されていた運河やその他構造物の建設を促進させた。これは大きな都市圏を建設できる土地を供給するには驚くほど効率的なことだった。最初にフェルスミアの町を設立してそこの土地を1エーカー当たり100ドルで販売するなど、幾らかの進展があったが、土地売買の詐欺や、エバーグレーズから排水に失敗したと言う報告があるなどスキャンダルがあり、土地の販売が挫折した。フェルの会社は管理のミスで資金不足にも陥った。豪雨によって建設したばかりの堤防が破壊され、会社は1916年までに債務超過状態となった。フェルは1917年にフロリダからバージニアに移った。 小説家マージョリー・キナン・ローリングスはその著書『South Moon Under』や『The Yearling』、その他短編数編の背景としてセントジョンズ川を使った。1933年、1人の友人とセントジョンズ川の船の旅を行った。上流域では川の流れがはっきりしていないために方向を判断するのが難しかったと記し、その回想録『Cross Creek』の「ヒアシンス漂流」と題する章では、ヒアシンスが流れている方向を見るという幸運に会ったと記している。ローリングスはさらに、「私に1つの美の簡潔な場所と時を永遠に持てるならば、セントジョンズ川の高く寂しい岸での夜を選ぶかもしれないと考える」と記した。 20世紀のフロリダは州内に大挙人々が移住してくる時代だった。未開の土地が良く売れ、湿地を埋め立てるための排水がチェックされないことも多く、政府がそれを奨励することも多かった。セントジョンズ川の水源は1900年から1972年の間に30平方マイル (78 km2) から1平方マイル (2.6 km2) まで小さくなった。土地の多くは都会化のために埋め立てられたが、農業への需要のために農薬や牛牧場の排水がセントジョンズ川に流れ込んだために、その努力を損なうことになった。汚染物を濾すための湿地が無ければ化学物資が川の中に留まり、大西洋に流出することになった。船乗りたちが上流にある泥と海藻の浮島をダイナマイトで壊し、湖から完全に排水できるようにした。 中央フロリダで最も深刻な人間による自然への影響となりえたものは、クロス・フロリダ・バージ運河だった。これはメキシコ湾と大西洋岸を繋ぐ運河であり、オクラワハ川の水路を利用した。1933年に承認された。この運河は、全長171マイル (275 km)、幅250フィート (76 m)、深さ30フィート (9 m) で計画された。運河建設は州内の建設工事でも優先度第1位であり、1964年までにアメリカ陸軍工兵司令部が運河の建設を始めた。その建設の背後にある動機として洪水制御が第1であったが、幅広い理由づけや工事の実現性については不明のままだった。工兵司令部もエバーグレーズで数百マイルの運河建設工事を行い、1960年代までに不必要な建設工事を行って税金の無駄遣いをしたと非難されていた。1969年、環境防衛基金が連邦裁判所に運河の建設を止めるよう訴訟を起こした。フロリダ州の水路とフロリダ帯水層、中央フロリダと北フロリダの淡水源になされるであろう修復不可能な損害を訴えていた。 これとは別のセントジョンズ=インディアン川バージ運河は、セントジョンズ川と沿岸内水路を繋ぐ運河として計画された。これは起工されることもなく、クロス・フロリダ・バージ運河の工事が中断されてから間もなく、計画中止となった.。
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