人の移動と観光産業
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「フロリダ州の歴史」の記事における「人の移動と観光産業」の解説
19世紀の終盤、フロリダ州は鉄道が州内に延伸するにつれて人気のある観光目的地になっていった。鉄道の大立て者ヘンリー・プラントはタンパに豪勢なホテルを建設し、これが後にタンパ大学のキャンパスになった。ヘンリー・フラグラーはジャクソンビルからキーウエストに至るフロリダ東海岸鉄道を建設し、沿線のセントオーガスティン、オーモンドビーチやウェストパームビーチなどの都市に多くの豪華なホテルを建設した。 1888年2月、フロリダ州は特別の観光客を迎えた。グロバー・クリーブランド大統領とそのファーストレディおよびその一派が数日間フロリダ州を訪れた。大統領はジャクソンビルで開催されていた亜熱帯展覧会を訪れ、州内観光業を支持する演説を行った。続いて鉄道でセントオーガスティンに向かいヘンリー・フラグラーと会った。さらに鉄道でタイタスビルに行き、蒸気船に乗ってロックレッジを訪れた。復路ではサンフォードとウィンターパークを訪問した。 第一次世界大戦後、南部諸州や北部の都市と同様に、フロリダ州内でも黒人に対する白人主導の私刑など人種差別に基づく暴力が起こった。これは急速な社会と経済の変化による歪みが一部原因となり、また職を求める競合もあった。白人は支配を保つために私刑に訴え続け、緊張感が高まった。1920年11月のオコーイーという小さな集落、1922年12月のペリー、および1923年1月のローズウッドでは、白人暴徒が殺人を犯し、続いて黒人の家屋、教会および学校の大規模な破壊となった。州知事は特別の起訴陪審と特別の検察官を指名してローズウッドとリーバイ郡の事件を捜査させたが、陪審は告発するに足る証拠を見付けられなかった。ローズウッドに住民が戻ることは無かった。1910年から1940年に掛けての大移住期に4万人の黒人が人種差別、私刑および権利剥奪から逃れるために、フロリダ州から北部の都市に移住した。彼らは、仕事、子供達のためのより良い教育、選挙に参加できる機会などより良い暮らしを求めた。 1920年代は国のほぼ全体で繁栄の時であった。フロリダ州の新しい鉄道は大規模な地域の開発を促進し、1920年代のフロリダ土地ブームを演出した。あらゆる種類の投資家、その大半はフロリダ州外からであったが、マイアミやパームビーチなど新たに開発され、急速に人気の出た土地を争って売買した。フロリダの土地を購入した人々の過半は州内に足を踏み入れるまでもなく、投機を行うための人を雇い、土地を買わせることができた。1925年までにバイヤーが高価な価格に対応できなくなり、間もなく土地ブームは弾けた。1926年のマイアミ・ハリケーンは不動産市場をさらに沈滞化させた。1929年には世界恐慌の影響が及んだ。しかし、この時までに、4年前に崩壊した土地ブームによってフロリダ州の経済は既に失墜していた。 フロリダ州の最初のテーマパークは1930年代に造られたウィンターヘイブン近くのサイプレスガーデンズ(1936年)とセントオーガスティン近くのマリーンランド(1938年)であった。ウォルト・ディズニーは1960年代に計画したウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの候補地にフロリダ州中部を選択し、土地を買い始めた。1971年にリゾートの最初の構成部分である魔法の王国が開場し、オーランド地域は様々なテーマパークのあるリゾート地として劇的に変化していった。今日のオーランド地域には、ディズニー以外にもユニバーサル・オーランド・リゾート、シーワールドおよびウェットンワイルドといったテーマパークがある。
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