恐慌における第二合衆国銀行の責任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:22 UTC 版)
「1819年恐慌」の記事における「恐慌における第二合衆国銀行の責任」の解説
ジョーンズとチーブスが行った第二合衆国銀行の無能な管理にも拘わらず、1819年恐慌やその後では原因となる機関にはならなかった。恐慌と不景気に至った歴史の過程は、ヨーロッパ市場の変動、数多い民間銀行からの連邦規制に対する妨害、貸付の拡大と土地ブームを可能にした新しい金融メカニズムに対して貸し手や借り手の間に広がっていた不案内など銀行の統制力を超えたものだった。 銀行の役割は、金融市場の不安定さを自動的に抑えるような抑制手段の1つであるが、このような好況・不況の波を妨げるものではない。歴史家のジョージ・デンジャーフィールドは「もし第二合衆国銀行が始めから賢明に管理していたとしても、恐慌を避けられたのではなく、その影響を修正できただけであろう」と記した。 1819年恐慌は…多くの要因が複合したものだった。すなわち戦後に貸付が拡大し過ぎたこと、1817年にヨーロッパの豊作により輸出市場が崩壊したこと、ヨーロッパからの輸入品の低価格化でアメリカの製造者が工場閉鎖を余儀なくされたこと、1811年以降州立銀行の過剰な拡大と、第二合衆国銀行の不健全な政策から金融の不安定が生まれたこと、さらに広がった失業である。Historian Harry Ammons, from James Monroe: The Quest for National Identity (1971)
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