恐慌への対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:29 UTC 版)
1929年の総選挙によって誕生した労働党政権最大の弱点は、それが少数内閣であり議会内で過半数を維持していないということにあった。1929年にアメリカのニューヨークから発した世界恐慌はイギリスにも襲来した。これが労働党少数内閣を襲う。緊縮財政を強いられたマクドナルドは失業保険の削除など福祉政策に回す予算を削減せざるを得なかったが、これは労働党の存在意義に大きく関わるものであった。事実労働者の権利向上を謳う労働党はこの政策を放棄したとみられ1931年の総選挙で200以上の議席を減らして大敗した。 この選挙結果を受けて労働党内で責任論が噴出し、マクドナルドにそれを求める意見が多かった。1931年にマクドナルドは党を除名され、労働党は従来から掲げてきた労働政策を維持するグループと、マクドナルド派に分裂した。マクドナルド派は保守党、自由党と連立政権を組織し、これを「国民政府」と銘打った。国民政府は金本位制の放棄、イギリス連邦の形成とそれをベースにしたスターリングエリア(英語版)の形成など矢継ぎ早に経済政策の刷新を行った。イギリスの経済不振は31-32年で底を打ち、以降回復傾向を見せるものの、広大なイギリス帝国の植民地を維持するだけの経済的基盤がもはやイギリスに存在しない事は隠し通せない事実となってしまった。 1935年に総選挙が実施され、労働党国民政府派が退潮し国民政府の首班は保守党党首のスタンリー・ボールドウィンに移行した。一方で野党労働党はこの選挙で党勢を大きく回復させた。以降も保守、自由、労働党国民政府派による国民政府は維持され続けるが国民政府の重要課題は、経済政策からヨーロッパ情勢へとシフトしていく。 また、1936年1月20日にはジョージ5世が死去し、エドワード8世国王が即位した。しかし、離婚歴のある平民のアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために「王冠をかけた恋」と謳われたほどグレートブリテン王国成立以降のイギリス国王としては歴代最短の在位期間わずか325日で退位し、1936年12月11日に王位継承権第1位だった次弟に譲位することで、ジョージ6世国王が即位した。翌年1937年5月12日、ウェストミンスター寺院にて国王ジョージ6世の戴冠式が執り行われ、日本の皇室からは昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁親王と同妃勢津子夫妻が参列した。なお、この4年後に日英開戦し両国は戦争状態に突入することになる。
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