昭和時代・戦前まで
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1926年(大正15年)に労働組合が結成されると、昭和初期にかけて労働争議が相次いだ。関東大震災の余波で3,750万足を生産した1923年(大正12年)には平均30銭であった足袋1足の値段が40銭に値上がりするなど好調であった行田足袋産業も、昭和初期の大恐慌には深刻な影響を受け、生産量は5,000万足を超えていた一方、平均価格は14銭まで下落し、1足何厘を競うまでになった。年間を通して需要の限られる子ども足袋を製造していた下請け業者やマラソン足袋の製造者は、10足5〜6銭の乏しい手間賃で働いていた。1927年(昭和2年)に始まった金融恐慌への対策として足袋業者が打ち出した職工賃金の値下げに反対し、労働組合では待遇改善を求めるストライキを多発した。 こうした状況を受けて足袋業界の統制を図る動きが急進し、1931年(昭和6年)に有力業者の共同による足袋共同販売会社が設立された。足袋共同販売会社は顕在化していた労使対立を緩和するべく、足袋屋対抗運動会を開催したり工場音頭や応援歌を導入するなど仲間内での融和を図るとともに、関西方面を中心に新たな販路開拓を目指した。他の産地との市場競争も激化しており、1933年(昭和8年)頃には行田足袋業界にとって最大のライバルであった大阪の大企業・福助足袋が行田進出を決め、行田足袋業界はその対応に追われた。この外憂がかえって労使を問わず行田足袋業界内部の結束を高め、相互に妥協案を模索する方向に譲歩していく。1934年(昭和9年)、行田足袋工業組合が設立された。1936年(昭和11年)には栄養供給所(行田足袋工場栄養食配給組合)が設立され、6カ所の足袋工場の約3,000名の職工へ昼食配給事業を始めるなど、発展に陰りを見せる行田足袋業界を社会政策的に救済しようという動きとみられる。 1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると軍需物資の製造も加わり、昭和恐慌を脱した行田足袋は 1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけて最盛期を迎える。1938年(昭和13年)には年間8500万足を生産し、全国シェアの約80%を行田足袋が占めた。行田は民謡『行田音頭』に「足袋の行田を想い出す」と歌われたように、「足袋といえば行田」を想起させる日本一の生産地となり、足袋生産地は吹上・羽生方面まで広がった。足袋産業は小企業が多くを占め、さらに内職として下請けに出されるため、行田の街全体が足袋生産工場の様相を成し、どこの裏路地に入ってもミシンの音が聞こえるほどに、工員に限らず大多数の住民が足袋を縫っていたという。 しかし、1937年(昭和12年)の日中戦争開戦に伴う戦時統制経済によって衣料繊維統制が行われると、足袋と足袋関係の689工場のうち261工場が休業を余儀なくされ、生産量は大幅に減少することとなった。足袋工場は軍事被服等の生産に転換することを求められ、1939年(昭和14年)の足袋生産量は、前年を下回る6,900万足にとどまった。1942年(昭和17年)には184の足袋業者が24の有限会社と1個人商店に統合され、「足袋のまち」は「軍需生産のまち」へと様相を変えた。
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