昭和時代までとは? わかりやすく解説

昭和時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/20 10:16 UTC 版)

円頓寺」の記事における「昭和時代まで」の解説

堀川掛かる五条橋から西に向かい江川(現在は暗渠化され名古屋市道江川線の上までを圓頓寺因んで圓頓寺筋と呼んだのが始まりで、南側にある真宗高田派名古屋別院から御本坊筋とも呼ばれ阿原慶栄寺などもあることから門前町として発達した。但し、現在の読みである「えんどうじ」がいつ頃定着したのであるかははっきりとした記録が無い。 なお、圓頓寺慶栄寺現在地移転して来たのは享保9年1724年)の大火後でそれ以前武家屋敷多く立地しており、古く徳川義直側室貞松院下屋敷なども置かれていた。 名古屋市道江川線を境に円頓寺通(円頓寺商店街)と円頓寺本町通円頓寺本町商店街)に分かれている。円頓寺本町通の西には西円頓寺商店街もあって西端名古屋駅ほど近い明治時代東海道本線開通伴って町の西方日本陶器豊田紡織などの工場立地し市街地拡大によって商店街名古屋市道江川線西側押切線まで伸び現在の本町商店街)、南側志摩町商店街現在の那古野2丁目)の地域まで広がった1911年明治44年)、町の東端付近に名鉄瀬戸線終点である堀川駅開業また、1913年大正2年)には名古屋電気鉄道江川線(後に名古屋市電上江川線)が開業するなど交通至便であり、多く利用客賑わっていた。1932年昭和7年)の調査では飲食店食料品家庭装飾品日用品を扱う店が大半で、瀬戸線江川線の利用者工場勤務者を主な顧客とする食品衣服日用品市場であり、古くからの商家が集まる市西北部唯一の盛り場として、特に夜間賑わい見せたという。1945年昭和20年)の名古屋大空襲では慶栄寺など被害出した一部焼け残った為、円頓寺界隈では古い町並み幾つか残った昭和30年代まで賑わった円頓寺界隈も、堀川駅市電双方廃止された後は衰退一歩辿っていたが、名古屋城城下町雰囲気が残る四間道(しけみち)地区と共に名古屋駅からの徒歩散策コース」として近年脚光を浴びている。同じく名古屋下町商店街として全国的な知名度を誇る大須比して集客面では劣っているが、昭和30年代から続く「円頓寺七夕まつり」や「中日ドラゴンズ応援ビールかけ」(優勝時)のほか、着物姿の客にサービスする円頓寺四間道界隈着物日和」、フリーマーケット骨董品から大道芸人など各種出展による「ごえん市」などの独自イベントや、地域通貨の「おむすび通貨導入などを行なっている。商店街路地に行くと円頓寺銀座と言うこじんまりながらも昭和時代の古い平屋長屋建物が並ぶスナックバーベトナム料理割烹居酒屋、など何軒か立ち並ぶ小さな飲食街がある。また円頓寺界隈には他にも幾つか戦前の古い長屋建物1930年昭和5年)に建てられ洋館風の医療法人復明館(旧水谷医院)が残っている。

※この「昭和時代まで」の解説は、「円頓寺」の解説の一部です。
「昭和時代まで」を含む「円頓寺」の記事については、「円頓寺」の概要を参照ください。

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