昭和時代・戦後とは? わかりやすく解説

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昭和時代・戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:53 UTC 版)

行田足袋」の記事における「昭和時代・戦後」の解説

あらゆる物資不足した戦後、絹足袋タフタ足袋などすぐに切れるような質の悪い配給原反作った足袋でも買い手がついた。作る前から買い手がついたほどで、「ヤミ足袋屋」と呼ばれるヤミ原反作る足袋普及した。「別珍御殿」と呼ばれるような大物商人から、数十足の足袋担いで縫い場を駆けまわる一作業員まで、ミシン経験があれば八百屋魚屋足袋縫い1950年昭和25年前後行田足袋繁栄は「行田足袋王国」と呼ばれた時代であった1949年昭和24年)から1950年昭和25年)は約2,000足の正規生産され足袋対し1,000足近いヤミ足袋出回ったとみられ、ヤミ足袋含めた行田足袋生産量は8,000足とも1億足とも語られている。1950年昭和25年)に経済統制解除されたことで、統合されていた足袋業者は再び個々独立し新興足袋業者多数誕生した1954年昭和29年)の足袋製造業者304社に上り、その大半が行田市域に集中しながらも販路素材違い活かした多彩な商品展開を見せた行田足袋となる主要な商標の他にも市域全体246商標用いられ関連業者金融業印刷業運送業旅館料亭に至るまで多種多様な業種人々が行足袋産業関与していた。商標は1軒1軒がそれぞれに持ち、「高級」「下等「男」「女」各種商標加えて大口の得意先商標作られていた。経済安定し行田足袋産業復興したかに見えた。 しかし、高度経済成長期サラリーマン層の増加洋装定着により足袋需要次第減少しており、その衰退傾向1954年昭和29年)のナイロン靴下発売によって決定的なものとなった1955年昭和30年春にヤミ足袋商人在庫持て余され資金力の無いヤミ足袋商人原料代の返済のために加工賃にも満たない価格足袋投げ売った行田足袋需要高齢者中心とした限られたものとなって販路急速に減少し1958年昭和33年)頃を境に、足袋業者廃業転業加速した廃業選んだ者が多い中、転業には足袋生産技術活かして地下足袋サンダルスリッパ靴下などの製造転向した者と、戦時統制下での経験活かして学生服作業服などの被服製造業転じた者に二分された。被服中でも流行性少な学生服作業服生産へと移行し発展したところに行田羽生加須中心とした北埼玉縫製地帯特徴がある。戦前からの足袋生産流れと、東京からやや離れている地理的条件流行左右されない被服生産へと舵を切らせとみられる個人では東京方面働きに出る者が増加し足袋産業離れ進んだ足袋作りは、行田中心とする付近農村婦女子限られた仕事となった1958年昭和33年)の足袋生産額行田被服縫製全体の45.1%で、作業服23.6%、学生服12.9%に対して足袋生産比率がまだ高くあったが、1964年昭和39年)には足袋25%作業服23.6%、学生服25.7%となり、被服生産割合、特に学生服生産増加した。この割合1973年昭和48年)には、学生服から婦人服子供服紳士服など被服品種多様化し需要の変化対応する中小零細企業工夫見られる行田昭和40年代まで全国有数足袋生産地であり続け足袋縫製業者1972年昭和47年時点組合加盟していた者が139軒あり40億円を出荷したものの、その出荷額は北埼玉縫製全体から見ればわずか12.5%に減少し大部分が行田の企業であった足袋専業とした業者20軒で、その他は靴下被服製造との兼業であり、行田市全体から見て足袋生産割合減少した

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昭和時代・戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:12 UTC 版)

丹後ちりめんの女工」の記事における「昭和時代・戦後」の解説

1946年昭和21年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請アメリカ向けの洋服地として「丹後クレープ」を輸出していた。西陣から初め先染織物出機賃機)が与謝郡入り、現在丹後製織されている織物起点になっている。これが丹後女性たち家内労働支えとなり、丹後織物代表的な形態になっている。 この時代丹後ちりめん織り手は、ほとんどが賃機呼ばれる家内工業女性たちである。1945年昭和20年初めまでは機屋住み込んだ女工たちによって支えられ労力は、労働基準法実施1日8時間制限された。そのため、丹後産地機業会社では、増産を図るための労力獲得するために、労働基準法適用されない下請け家内工業傘下設け必要に迫られた。機業会社工場から機械賃機に移すことによって、手持ち労働力多く労働基準法による8時間操業時間制限からはずすことに成功した親会社親機賃機は1反あたりの歩合織り工賃で製織引き受ける。その関係は親子関係例えられるが、実際親機にとって賃機福利厚生に金を使う心配もない使い捨て労力であった。「織った織っただけ儲かるさかいにということで、賃機手取り額を少しでも増やすために長時間操業続け親機はさらに賃機傘下増やし法的に制限のない労力源を形成していった。 丹後産地事業所昭和2~20年175事業所昭和2130年に1302事業所昭和3140年に4599事業所昭和4144年に1056事業所増加があり、そのほとんどが賃機増加である。1945年昭和20年)の事業所総数465事業所であったのが、1969年昭和44年)には7422事業所膨張しており、このうち93.2%が賃機である。賃機主婦織り手主力となっている。丹後織り手典型は、地元中学校卒業後、機業会社就職し、同じ会社勤めていた夫と知り合い結婚し、身につけた製織技術生かして下請け織り仕事始める。 昭和36年農業基本法以降現金収入少なくなり、牛小屋から牛を追い出し納屋改造して機を置いた1日労働時間は約13時間主婦織り手1人2役過労激しい。5時半起床朝食の後、午前7時から午後6時まで織機の前で立ち仕事その間に夫と交代昼食かきこむ夕食後は「ふし取り」という製品の糸のほつれを直す整理作業行い午後11時半就寝長時間の立ち仕事足が棒になる月収10万円、夫と2人働いた分としては決し高収入とは言えない。そしてはし織れ(糸が切れたのに気付かず傷物になった物)を出すと下請け織り仕事受注先の機業会社から織り工賃がもらえない。ひどいはし織れなら、絹糸損害支払なければならないこともある。大抵は、はし織れ安く売り払って損害穴埋めをする。 丹後では女性たちの間に犠牲的労働従事することを美徳とする風習残されている。姑たちは嫁たちによく働くことを見習わせ、嫁は身体を粉にして働くことをあたりまえとすようになった丹後女性は、過酷な労働従事することを誇りとするようにさえなる。寸暇を惜しんで、機を織った女性達おかげで当時丹後地方家庭にはカラーテレビ電気掃除機など、あらゆる電化製品他の地方よりそろっていたという。丹後地方最初に入った電化製品は、電気洗濯機電気炊飯器だった。

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