漆の歴史
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「夜久野町における丹波漆と漆搔き」の記事における「漆の歴史」の解説
江戸時代 漆は福知山藩で主要な特産物であり、その中でも夜久野郷は主生産地の一つであった。1792年(寛政4年)の井田村の「御漆山木数覚」によると、多いもので40本、少ないもので1本という開きはあるが、百姓それぞれが畑地やサキ地末に栽培していたとされる。また、役人から木数を減らさないようにいわれているのを承知した文書を「百姓中」として庄屋と組頭宛に提出している記録も残っている。 幕末になると、1825年(嘉永5年)には、「領内の産物穀物は一切自由な売買を禁止して藩営とする」「産物を抜いて売買する者は最も重罪とする」などを定めた「市川御趣旨」が出されたが、藩内農民から反感を買い、1860年(万延元年)の市川騒動へと発展していく。この騒動は、夜久野郷が主動力であったとも言われ、漆を始めとした特産品に対する規制にその一因があったのではないかとも言われている。 明治時代 中国大陸から安い外国漆が輸入され始め、日本の漆採取業者は徐々に苦しい立場に陥る。 昭和時代(戦前・戦時中) 生漆の生産は漸減し、輸入漆への依存が高まっていく。この状況下から脱出しようと、国は国産漆の増産奨励に乗り出し、1933年(昭和8年)に漆樹増産10ヵ年計画を打ち出した。京都府内では、漆増殖実行組合数19、組合員1729名が組織され、天田郡では府内で最も多い4組合が組織された。しかし、10ヵ年計画の最終年は、太平洋戦争真っ只中であり、計画が十分に進行した可能性は低いとされる。 昭和時代(戦後) GHQの指示のもと国内資源の活用が叫ばれる。国産漆においては、1948年(昭和23年)に京都商工会議所にて漆液増産についての協議がなされ、丹波漆生産組合を設立した。
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