小笠原流弓馬術礼法(平兵衛家系)
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「赤沢氏」も参照 流派の始祖としては、小笠原家の初代小笠原長清とするもの、7代小笠原貞宗とするもの(本朝武芸小伝等)、さらには遠祖の貞純親王とするもの等がある。寛政重修諸家譜等に見える家伝によれば、小笠原氏は遠祖の貞純親王以来の「糾法」(きゅうほう、弓馬術礼法)を代々伝え、鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたとする。7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。なおこの時期に、貞宗と一族の小笠原(赤沢)常興は『修身論』及び『体用論』をまとめ、今日の小笠原流の基礎を築いたとされる。 室町時代には、足利義満の命により、10代小笠原長秀が今川左京大夫氏頼・伊勢武蔵守憲忠と共に「三議一統」を編纂。武士の一般常識をまとめたとされる。18代小笠原貞慶は、「三議一統」後に加えられた記述をし、武家礼法を「小笠原礼書七冊」としてまとめた。 小笠原家は代々、総領家(本家)が糾法および小笠原流礼法全般をとりしきっていたが、総領家17代の小笠原長時とその子貞慶期には戦国大名として、信濃侵攻を行った甲斐の武田信玄と戦いを繰り広げる中、弓馬礼法の伝統を絶やさないため、永禄5年(1562年)、一族筋にあたる赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図、記録を携え、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味する。つまりこのとき、総領家と弓馬礼法の家が分離した。 この後、赤沢経直は徳川家康に仕えて小笠原姓に復した。弓馬礼法宗家筋となったこの家系(平兵衛家)は歴代将軍に仕え、将軍家子女の婚礼や元服の儀式に与るとともに、8代将軍徳川吉宗の命により復興された流鏑馬(騎射挟物)が第20代小笠原常春に預けられ、以後代々騎射師範として門弟を指揮し、高田馬場等で行うなどしている。 明治以降も継承され現在、小笠原清忠が弓馬術礼法教場31世宗家。弓馬術礼法の継承者として、大的式・百々手式・草鹿等の歩射、流鏑馬・笠懸などの騎射の各種の式を明治神宮や熱田神宮、伊勢神宮、靖国神社、鶴岡八幡宮など各地で行っている。なお清忠の嫡男小笠原清基は特定非営利活動法人 小笠原流・小笠原教場の理事長を務めている。小笠原流礼法は登録商標(商標登録番号 第3076080号)となっていて小笠原教場以外が、「小笠原流礼法」の名称を使用して教えることは禁じられている。 なお、弓術流派としての小笠原流は、室町時代後期に戦陣の歩射を起源として興った日置流の斜面打起しに対し、騎射由来である正面打起しを行う点に特色がある。体配(行射の作法)も日置流とは異なり、今日的な用語で礼射系と分類される。射法に関しては日置流の影響を受けている。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 小笠原流の射手 草鹿式の的 三々九手挟式 小笠原流の流鏑馬射手 騎射挟物(鶴岡八幡宮)
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小笠原流弓馬術礼法(小笠原教場)
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弓馬術礼法小笠原流公式サイトによれば、「礼法・弓術(弓道)・弓馬術(流鏑馬)の三つを教授するものでその中の一つに礼法がある。礼法が楷書、弓術が行書、流鏑馬が草書であるといわれている。小笠原流礼法は弓馬術礼法小笠原流の一部であり、弓馬術礼法小笠原教場以外では教授することは出来ない」とのことである。 昭和時代まで上記のように、一子相伝で門外不出とされてきたが、小笠原家30世宗家として昭和29年に流派を継承した小笠原清信が多数の著書を記したり全国の教場で教えるなどの普及活動を行ったことで一般にも知られるようになった。小笠原清信は明治大学文学部教授や日本古武道振興会会長を歴任した人物で、昭和時代の弓道の名人として多数の神社などで流鏑馬奉納を行ったことでも知られる。こちらの系統は主に小笠原流の弓馬術の教場を通じて広まった。 清信没後は清信の子である小笠原清忠が小笠原家の宗家を受け継いでいる。
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