小笠原流弓馬術礼法とは? わかりやすく解説

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小笠原流弓馬術礼法(平兵衛家系)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:08 UTC 版)

小笠原流」の記事における「小笠原流弓馬術礼法(平兵衛家系)」の解説

赤沢氏」も参照 流派始祖としては、小笠原家初代小笠原長清とするもの、7代小笠原貞宗とするもの(本朝武芸小伝等)、さらには遠祖貞純親王とするもの等がある。寛政重修諸家譜等に見え家伝によれば小笠原氏遠祖貞純親王以来の「糾法」(きゅうほう弓馬術礼法)を代々伝え鎌倉時代には初代小笠原長清源頼朝の、2代小笠原長経源実朝の糾法(きゅうほう師範命じられたとする7代目小笠原貞宗南北朝時代後醍醐天皇仕え弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法新定して、武家定式とするなり」という御手判賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる三階菱家紋である。なおこの時期に、貞宗一族小笠原赤沢)常興は『修身論』及び『体用論』をまとめ、今日小笠原流基礎築いたとされる室町時代には、足利義満の命により、10代小笠原長秀今川左京大夫氏頼・伊勢武蔵守憲忠と共に「三議一統」を編纂武士の一般常識をまとめたとされる18小笠原貞慶は、「三議一統」後に加えられ記述をし、武家礼法を「小笠原礼書七冊」としてまとめた。 小笠原家代々総領家(本家)が糾法および小笠原流礼法全般をとりしきっていたが、総領17代の小笠原長時その子貞慶期に戦国大名として、信濃侵攻行った甲斐武田信玄戦い繰り広げる中、弓馬礼法伝統絶やさないため、永禄5年1562年)、一族筋にあたる赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図記録携え弓馬術礼法宗家道統託した道統とは小笠原弓・馬・礼の三法総取り仕切り役の正統継承意味する。つまりこのとき、総領家と弓馬礼法の家が分離したこの後赤沢経直は徳川家康仕えて小笠原姓に復した弓馬礼法宗家となったこの家系(平兵衛家)は歴代将軍仕え将軍家子女婚礼元服の儀式に与るとともに8代将軍徳川吉宗の命により復興された流鏑馬騎射挟物)が第20代小笠原常春預けられ以後代々騎射師範として門弟指揮し高田馬場等で行うなどしている。 明治以降継承され現在、小笠原清忠弓馬術礼法教場31世宗家。弓馬術礼法継承者として、大的式・百々手式・草鹿等の歩射流鏑馬笠懸などの騎射各種の式を明治神宮熱田神宮伊勢神宮靖国神社鶴岡八幡宮など各地行っている。なお清忠の嫡男小笠原清基は特定非営利活動法人 小笠原流・小笠原教場理事長務めている。小笠原流礼法登録商標商標登録番号 第3076080号)となっていて小笠原教場以外が、「小笠原流礼法」の名称を使用して教えることは禁じられている。 なお、弓術流派としての小笠原流は、室町時代後期戦陣歩射起源として興った日置流斜面打起し対し騎射由来である正面打起しを行う点に特色がある。体配(行射の作法)も日置流とは異なり今日的な用語で礼射系と分類される射法に関して日置流影響受けている。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 小笠原流射手 草鹿式の的 三々手挟小笠原流流鏑馬射手 騎射挟物鶴岡八幡宮

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小笠原流弓馬術礼法(小笠原教場)

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小笠原流礼法」の記事における「小笠原流弓馬術礼法(小笠原教場)」の解説

弓馬術礼法小笠原流公式サイトによれば、「礼法・弓術弓道)・弓馬術流鏑馬)の三つ教授するものでその中の一つ礼法がある。礼法楷書弓術が行書、流鏑馬草書であるといわれている。小笠原流礼法弓馬術礼法小笠原流一部であり、弓馬術礼法小笠原教場以外では教授することは出来ないとのことである。 昭和時代まで上記のように、一子相伝門外不出とされてきたが、小笠原家30世宗家として昭和29年流派継承した小笠原清信多数著書記した全国教場教えるなどの普及活動行ったことで一般に知られるようになった小笠原清信明治大学文学部教授日本古武道振興会会長歴任した人物で、昭和時代弓道名人として多数神社などで流鏑馬奉納行ったことでも知られる。こちらの系統は主に小笠原流弓馬術教場通じて広まった。 清信没後は清信の子である小笠原清忠小笠原家宗家受け継いでいる。

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