小笠原常春とは? わかりやすく解説

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小笠原常春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 07:48 UTC 版)

 
小笠原常春
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文6年(1666年
死没 延享4年2月12日1747年3月22日
改名 常政/貞政(初名)→常春
別名 通称:主水、権八郎、平兵衛
墓所 浅草の長徳院
幕府 徳川幕府 旗本
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗家重
氏族 赤沢氏系小笠原氏
父母 父:小笠原直経、母:某氏
兄弟 時経[1]、宇右衛門[1]、総十郎、常春、女子
松平重良養女(戸田正吉の女)
常喜、松平勘敬、丸毛利広、松平信興[2]の妻
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小笠原 常春(おがさわら つねはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本徳川吉宗が主導した騎射の諸儀式の復興に関与し、幕府の騎射師範役となった。子孫も同様の役を務め、現在の小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家に続いている。

略歴

寛文6年(1666年)、旗本・小笠原直経の四男として誕生。延宝6年(1678年)2月18日、4代将軍・徳川家綱に拝謁し、同年12月6日に家督を相続し寄合に列する。天和3年(1683年)閏5月21日小姓組に列し、元禄2年(1689年)2月13日桐間番に移り、同年4月21日小姓に進んだが、9月29日、「ゆえありて」小普請に落とされた。元禄3年(1690年)5月10日大番に列し、元禄9年(1696年)7月4日御小納戸に移り、元禄10年(1697年)閏2月7日大番に復する。同年7月26日、廩米500俵を改め、下野国梁田郡安蘇郡都賀郡のうちに采地を賜る(知行500石)。

元禄11年(1698年)、5代将軍・徳川綱吉の養女八重姫水戸徳川家への輿入れの式を承り、時服2領黄金2枚を賜ったのを初め、この後も度々将軍家の姫の輿入式の任にあたる。

宝永5年(1708年)12月3日小姓組番士となり、正徳3年(1713年)3月18日次期将軍徳川家継の元服の式を書し、正徳5年(1715年)1月11日徒士頭となり、享保2年(1717年)1月11日目付に転ずる。

享保9年(1724年)10月25日、幕臣に流鏑馬笠懸を師範する任を承り、将軍の台覧の際に時服3領を賜る。また享保11年(1726年)2月2日番士の輩に騎射を師範する任を承り、将軍の台覧の際に時服3領を賜る。これより赤沢小笠原家(小笠原平兵衛家)は代々幕府の騎射師範役となる[3]

享保13年(1728年)、天然痘を罹患した徳川家重の快癒祈願のため、流鏑馬を興行する。享保14年(1729年)9月28日新番の頭に転じ、元文2年(1737年)6月2日徳川家治誕生の際にその礼式を承り、時服2領黄金2枚を賜る。元文3年(1738年)2月21日幕命により流鏑馬を興行し時服2領黄金3枚を賜る。元文4年(1739年)1月11日御槍奉行に転じ、元文5年(1740年)5月23日吹上御所にて、幕臣による騎射を将軍の台覧に供じる。

延享2年(1745年)8月7日老齢を理由に職を辞し、寄合に列し、時服3領を賜る。延享3年(1746年)4月5日致仕し、養老の廩米300俵を賜る。延享4年(1747年)死去。享年82。浅草の長徳院に葬られた。

脚注

  1. ^ a b 家督相続前に早逝
  2. ^ 勘太郎。信重系長沢松平家
  3. ^ 歩射の師範は旗本小笠原縫殿助家(京都小笠原氏の子孫)の小笠原持広に任され、同家が代々幕府の歩射師範役となった。

参考文献

関連項目

外部リンク




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