小笠原尚清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/30 19:34 UTC 版)
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 寛正6年(1465年)[注釈 1]または文明6年(1474年)[注釈 2] |
死没 | 文亀2年3月22日(1502年4月28日) |
別名 | 又六(通称)、宗仁(法名) |
官位 | 民部少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利将軍家 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原政清、母:不詳 |
兄弟 | 南陽院殿(北条早雲正室) |
子 | 稙盛 |
小笠原 尚清(おがさわら ひさきよ)は、戦国時代の室町幕府家臣。
生涯
室町幕府幕臣で奉公衆の小笠原政清の子。諱の尚の字は足利義尚の一字を拝領したものである[1]。
延徳元年(1489年)に16歳で細川政元主催の犬追物に検見(けんみ,射手の射方,矢の中り外れ,馬の扱い等の判定役)として参加。父の政清が16歳で検見を勤めた旧例に倣ったという[2]。
文亀2年(1502年)3月22日死去[3]、享年38[4][注釈 3]。子の稙盛が後を継いだ。
死去の4、5日前に「武家御庭」(将軍邸)で枯れ木を踏み抜き発熱,20日に症状が重くなり22日死去,破傷風であったという[3]。 また、「細川屋形の内」において、鷹飼の御用のため上意[注釈 4]により鳥の子[注釈 5]を取るために木に登ったところ,木から落ちて死去した[4]とも。
小笠原氏は幕府の的始めや犬追物を差配する立場にあり、同家の伝える武家故実は当時の武家社会で規範とされていた[6]。父の政清も室町殿の「弓馬師範」であり、尚清はその惣領であったことから、大宮時元(小槻氏・大宮官務家)は「彼の一流の口伝断絶か。もってのほかの儀也。(中略)希代の事也。」[3]と嘆いている。
また、尚清没後、幼少の頃より政清・尚清父子から故実の指導を受けていた細川高国は、足利義稙の命により政清の日記と小笠原家の家伝を一時的に預かり、尚清遺児の稙盛を弟子とした[7]。
著書
脚注
注釈
出典
参考文献
- “「時元記」文亀2年3月22日条”. 大日本史料総合データベース. 2021年3月15日閲覧。
- “「大乗院寺社雑事記」文亀2年4月3日条”. 大日本史料総合データベース. 2021年3月15日閲覧。
- 武田, 信也「武家故実の地方展開に関する一考察(1):小笠原家の豊後下向とその契機」『大分縣地方史』第178号、大分県地方史研究会、2000年8月、1-22頁、2021年6月1日閲覧。
- 二木, 謙一「「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」」『『中世武家儀礼の研究』』吉川弘文館、1985年。
- 大坪, 舞「近衞前久が継承した鷹の言説 : 『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通して」『鷹・鷹場・環境研究』第2巻、九州大学基幹教育院、2018年3月20日、116-126頁、doi:10.15017/1928649、ISSN 2432-8502、2021年3月28日閲覧。
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