長沢松平氏とは? わかりやすく解説

長沢松平家

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 13:56 UTC 版)

長沢松平家
花丁字 はなちょうじ
本姓 称・清和源氏
家祖 松平親則
種別 武家
士族 - 嫡流
華族(男爵) - 松平正直
出身地 三河国宝飯郡長沢
主な根拠地 三河国宝飯郡長沢
著名な人物 松平康忠
松平忠輝
松平忠敏
松平正直
支流、分家 大河内松平家(武家・子爵)
正直家(武家・男爵)
凡例 / Category:日本の氏族

長沢松平家(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。

長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱松平伊豆守として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。正綱も信綱も「長沢松平家の傍系へ入嗣した大河内氏」であり、長沢松平家の直系および傍系はこれとは別に存続している。維新後には傍系の一人松平正直が勲功により華族男爵に叙せられた。

概要

長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。本拠地は長沢城であった。この長沢城は現在の豊川市立長沢小学校愛知県豊川市長沢町字午新)周辺。今では旧東海道拡張のための国道1号建設により、城の丘は南北に分断されている。

著名な人物には、徳川家康の従弟・松平康忠がある。康忠は戦功多く、徳川十六神将の一人にかぞえられている。

文禄2年(1593年)、康忠の子・松平康直が嗣子無きまま病没したため、家康の七男・松千代を養子に迎えて家名存続を図った。その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。これが松平忠輝である。ただし松千代を経由せず、忠輝が直接継いだとする資料もある。

忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、ほんの僅かな期間に過ぎず、元和2年(1616年)、忠輝は異母兄の将軍・徳川秀忠により改易。長沢松平家の家名は断絶してしまう。

ただし、忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っていた。それでも江戸幕府はなかなかこの家を認めず、享保4年(1719年)にようやく長沢松平家と認知した。天保5年(1834年)に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。幕末期当主松平忠敏(主税助)は浪士組の取締役になった。

その他の長沢松平家

傍系の松平清直松平忠輝の付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月(1618年)に将軍家に召し出されて三河国宝飯郡形原に5、000石の所領を与えられ、交代寄合となったが、孫の信実の代に無嗣絶家。

清直の弟の松平正世も忠輝に仕えたが、忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、子孫は越前国福井藩重臣の松平主馬家として存続した。同家の分家筋の松平正直は会津征伐において戦功をあげ、明治以降宮城県知事熊本県知事内務次官貴族院勅撰議員などを歴任した功績で華族男爵)に叙されている[1]

正世 - 正詮 - 正恒 - 正村(正勝) - 正恒(再襲) - 正明(正般) - 正惟 - 正郷 - 正義 - 正方 - 正一

越後長岡藩牧野家家老・今泉家も長沢松平家の庶流の一つであるとされている。

系図

凡例

1) 実線は実子、点線は養子 2) 太字当主。数字は家督継承順。

松平信重の子孫

松平信重は、『寛政重修諸家譜』及び家伝の系譜と系図によると松平親清の二男とされるが、中嶋次太郎著『松平忠輝と家臣団』では、松平康忠の近親者の可能性も指摘されている。なお、政信以降、姓は長澤となる。酒井忠恭の代に厩橋(前橋)藩が姫路へ転封されたため、その後の系図は姫路市城郭研究室所蔵の資料及び善導寺(姫路市)の過去帳によった。また、明治以降は戸籍簿による。

松平主馬家

六代当主・松平親広の孫・松平正世を祖とする。越前松平家・高知席6,000 → 3,000石。

大河内松平家

松平康直病没前の天正15年(1587年)、徳川家康の命で摂津源氏末裔大河内正綱が長沢松平家分家の松平正次の養子となる。この後は大河内松平家とも呼ぶ。この松平正綱の甥が正綱の養子となり、知恵伊豆と謳われる老中松平伊豆守信綱武蔵国忍藩、そして川越藩主)となる。またその末裔から小知恵伊豆と言われる老中松平伊豆守信明(三河吉田藩主)も出す。大名を三家出し、旗本の家もあった。明治維新後、大河内松平家は全家が大河内姓に復している。

長沢松平家の大名

脚注

  1. ^ 松田敬之 2015, p. 689.
  2. ^ 子孫、幕臣500石。
  3. ^ 別名に親直。
  4. ^ 別名に忠甫。
  5. ^ 本家相続。母親は康忠の娘。ただし浪人。
  6. ^ 徳川家康七男。
  7. ^ 徳川家康六男。
  8. ^ 御家再興の嘆願書を江戸城大手門にわざと落として問題化させ、御家再興に成功した。ただし知行俸禄は無し。
  9. ^ 大河内秀綱次男。
  10. ^ 交代寄合松平郷松平家・松平尚澄三男。
  11. ^ 十人扶持
  12. ^ 講武所出仕。切米300俵→配地300石
  13. ^ 通称は平右衛門。文禄4年(1595年6月18日卒。墓は岡崎市岩津町の妙心寺。
  14. ^ 通称は八兵衛。文禄2年(1593年4月17日卒。墓は妙心寺。
  15. ^ 右京
  16. ^ 通称は甚兵衛(以降三代にわたり甚兵衛を称す)、筑後守、源心。越後高田藩松平忠輝家臣として清崎城代1万6千5百石。寛永5年(1628年5月17日卒。墓は新宿区四谷の西迎寺。
  17. ^ 甚五兵衛
  18. ^ 甚兵衛、孫三郎、筑後守、源雪。信宗の遺領を継ぐ。正保2年(1645年)11月15日卒。
  19. ^ 長澤。通称は平右衛門。
  20. ^ 甚兵衛、孫三郎。室は松平正直の娘。寛文11年(1671年3月17日卒。
  21. ^ 通称は五郎左衛門。貞享4年(1685年6月25日卒。墓は前橋市の大連寺
  22. ^ 通称・仙之助、孫三郎。元禄8年(1695年8月11日卒。
  23. ^ 甚之丞、左近。元禄元年(1688年9月29日卒。
  24. ^ 通称・小大夫(以降、子孫も小大夫を称す)。寛保2年(1742年11月5日卒。墓所:姫路市の善導寺。
  25. ^ 千之助、源七郎。元禄14年(1701年8月10日卒。
  26. ^ 孫次郎、甚兵衛。室は大久保忠行の娘。享保10年(1725年1月26日卒。
  27. ^ 通称・平一郎。
  28. ^ 安永9年(1780年9月10日卒。墓所・善導寺
  29. ^ 勘太郎。室は小笠原常春の娘。安永5年(1776年7月17日卒)。
  30. ^ 天明6年(1785年10月28日卒。墓所・善導寺。
  31. ^ 根岸五衛門成巴二男。文化14年(1817年3月8日卒。墓所・善導寺。
  32. ^ 稲次郎、三十郎、大蔵。造酒正、飛騨守。
  33. ^ 鳥山大七郎允陳二男。元治元年(1864年4月6日卒。墓所・善導寺。
  34. ^ 天保14年(1843年6月28日卒。墓所・善導寺。

参考文献


長沢松平氏

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松平忠輝」の記事における「長沢松平氏」の解説

慶長4年1599年1月家康の七男で同母弟の松千代早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督相続し武蔵国深谷1万石を与えられた。ただし『徳川幕府家譜』では慶長初めに長沢松平氏は忠輝が直接継いだとあり(『御九族記』は松平康直死去と同じ文禄2年)、松千代通説では異母弟松平仙千代経歴とされる平岩親吉養子になったとある。松平仙千代は後に御三家筆頭となる徳川義直同母兄であり、いかに親吉が功臣としても養子とするのは不自然であり、庶子第2子である松千代の方が適当と言える慶長3年1598年)、伊達政宗の娘と縁組を行う。慶長7年1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る慶長8年1603年2月信濃国川中島藩12万石加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封前年12月であったため、わずか40日で2度転封となる)。 慶長10年1605年)に上洛して家康将軍として最後に参内し翌日4月11日参内従四位下・右近衛権少将任じられる5月11日には新将軍秀忠名代として、上洛拒否した大坂豊臣秀頼面会した慶長11年1606年11月24日先述のように縁組した政宗長女五郎八姫結婚した慶長13年1608年)、異父姉の婿の花井吉成附家老とされた。 慶長14年1609年9月幼き日の忠輝を養育しこの頃幕府からの附家老であった皆川広照や、山田重辰松平清直古くからの家臣が、忠輝の素行改まらないことを駿府家康訴えた。忠輝側の弁明もあり、家康からは逆に家老不適格であるとされて皆川松平清直改易山田切腹となった慶長15年1610年)、当初井伊直勝代わりに近江国60万石もしくは50万石与える話があったが、閏2月越後福嶋騒動堀忠俊改易されると、その旧領である越後国高田藩福島城主・後述30万石を加封され、川中島14万石併せて合計45万石領した(『恩栄録』)。なお、所領史料によって75万石(『慶長見聞録案紙』『慶長見聞書』)、65万石(『松平系諸集参考』)、55万石(『家盛』『大三川志』)、538千500石(『武徳編年集成』)、45万石(『恩栄録』『続選武家補任』)と一定していない。旧領川中島領は花井吉成松代城となって支配したこの際幕命により松平清直を5千石再度附属させられている。 慶長17年9月には駿府家康面会したが、これは主に江戸参勤していた忠輝としばらく会っていない家康からの要望だった。同年には長年家康麾下大番頭勤めた松平重勝を、忠輝の附家老にした。翌年4月も忠輝は駿府出向き家康面談している。

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