小笠原氏の内紛と村上氏の再興とは? わかりやすく解説

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小笠原氏の内紛と村上氏の再興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)

信濃村上氏」の記事における「小笠原氏の内紛と村上氏の再興」の解説

実力者小笠原政康死後小笠原氏惣領職めぐって政康の長男小笠原宗康京都にあって将軍家奉公衆勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続めぐって争い起きた。持長は結城合戦赤松満祐討伐でも功績があり、幕府実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題複雑化させた。しかし、現状鑑みれば、在京期間が長く信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれない判断され[要出典]小笠原宗康信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏府中の持長方伊賀良の宗康方とに分かれそれにともない国人衆も二派に分裂して対立続いた文安3年1446年)、小笠原宗康は弟の小笠原光康後援頼み自身討ち死にした場合は光康に惣領職譲り渡す取り決め、漆田原で持長軍と戦った敗れて討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府守護職小笠原氏惣領職を光康に与えたその結果、持長と光康の対立続いた。その戦乱の中で村上氏着実に勢力回復図り中信濃と南信濃分かれて対立する小笠原氏尻目に北信濃手中に収めていった。 この当時村上氏当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。政清は享徳の乱の際には反幕的態度取り寛正4年1463年)に幕命により越後から侵入した上杉右馬頭足利成氏通じ高梨政高攻撃し、政高がこれを中野付近討ち取った際には高梨氏支援している。応仁元年1467年)、海野氏領していた小県郡塩田荘奪い応仁2年1468年)には海野荘攻め入り千葉城(せんばじょう、現・長野県上田市洗馬)の詰口奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社送っている。文明2年1470年海野氏一族支配する矢沢(現・上田市)でも戦っており村上郷から坂木郷に本拠移したことで海野氏と境を接し摩擦増し続いていたもの考えられる[要出典]。一方善光寺平高井郡水内郡にも進出し文正元年1466年高井郡山田郷で井上満貞と戦い同年の満貞死去はこの合戦との関係や高梨氏との挟撃さらされたことが考えられる[要出典]。

※この「小笠原氏の内紛と村上氏の再興」の解説は、「信濃村上氏」の解説の一部です。
「小笠原氏の内紛と村上氏の再興」を含む「信濃村上氏」の記事については、「信濃村上氏」の概要を参照ください。

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