小笠原氏の内紛と村上氏の再興
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「信濃村上氏」の記事における「小笠原氏の内紛と村上氏の再興」の解説
実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され[要出典]小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446年)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れて討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。 この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。政清は享徳の乱の際には反幕的態度を取り、寛正4年(1463年)に幕命により越後から侵入した上杉右馬頭が足利成氏に通じる高梨政高を攻撃し、政高がこれを中野付近で討ち取った際には高梨氏を支援している。応仁元年(1467年)、海野氏が領していた小県郡塩田荘を奪い、応仁2年(1468年)には海野荘に攻め入り千葉城(せんばじょう、現・長野県上田市洗馬)の詰口を奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社に送っている。文明2年(1470年)海野氏の一族が支配する矢沢(現・上田市)でも戦っており村上郷から坂木郷に本拠を移したことで海野氏と境を接し摩擦を増し続いていたものと考えられる[要出典]。一方善光寺平の高井郡や水内郡にも進出し文正元年(1466年)高井郡山田郷で井上満貞と戦い、同年の満貞死去はこの合戦との関係や高梨氏との挟撃にさらされたことが考えられる[要出典]。
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