小笠原測量と軍艦建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 04:36 UTC 版)
帰国後、軍艦奉行木村により航海中における小野の功績が報告され、14代将軍徳川家茂に謁見および褒賞を賜った(なお、艦長であった勝は謁見を許されていない)。これに伴い、物頭格五人扶持の待遇を受ける。小野は海軍充実の必要性を感じ、軍艦奉行に対し、国産蒸気船の建造を具申する。万延2年(1861年、同年文久に改元)正月、小型蒸気軍艦の建造が許可され、主任に任命された。 同年7月、軍艦頭取となり、正式に幕臣となる。異国船防備のため江戸湾測量を行う。またジョン万次郎が小笠原諸島の領有・捕鯨基地化を提案し、アメリカやイギリスが同島の領有権を主張し始めたこともあり、同島嶼の精密な調査が必要となっていた。そのため、外国奉行水野忠徳を長とする調査団が小笠原諸島に派遣されることとなり、咸臨丸がその任に就いた。これに関して小野が咸臨丸艦長に任ぜられ、同諸島の測量を行った。この測量が、小笠原諸島の日本領有の大きな手がかりとなる。 翌文久2年(1862年)には上記の蒸気軍艦建造の計画が進められ、幕府で初めてとなる国産蒸気軍艦千代田形の建造を指揮(同船は量産化を計画されていたが結局一号船のみに終わったため、そのまま「千代田形」の船名で呼ばれた)。
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