江戸湾測量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 06:39 UTC 版)
天保10年(1839年)に、伊豆国韮山の代官の江川太郎左衛門(江川英龍)と鳥居耀蔵が、江戸湾の海防の実態を調査するよう命じられた。 小笠原はかつて箱館奉行所勤めだった時に蝦夷地域の測量隊に加わっていた経験を買われて測量の仕事に抜擢されたが、実務を担当していたわけではなく、測量の技術をろくに持ちあわせていなかったため、満足のいく結果は出せなかった。 江川は、高野長英から紹介された内田弥太郎と上田喜作に測量を行なわせた。出来上がった測量図は小笠原の物よりも優れており、江川組の地図が採用された。 蛮社の獄は、この測量・視察の視察の復命書に、江川が蘭学者の渡辺崋山の意見書を添えようとしたことに対し、蘭学者に批判的な鳥居がこれを阻止し、彼らを処罰しようとしたことがきっかけとなったとも言われている。
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