岩橋教章(いわはしのりあき 1835-1883)
鳥羽藩士、地図製図の先駆者。
岩橋教章は、天保6年(1835)鳥羽藩士岩橋庄助の長男として生まれた。長じて、医師で洋学者であった安藤文沢に学ぶと同時に、狩野派を学んだという。家督を継いだ教章は、幕府操練所に出仕して、神奈川港の実測図調製に際しては絵図方助手として、江戸湾測量にも荒井郁之助らとともに従事していた。その文久元年(1861)10月には、幕府御軍艦繰練所絵図方出役に任じられた。
翌文久2年の幕府による伊勢・志摩、尾張沿岸の測量には、後に初代水路部長となる当時津藩の柳楢悦らとこれに加わったという。その成果は「伊勢志摩尾張付紀伊三河」となり、航海用沿岸海図の最初のものとなったが、岩橋も絵図方として、その一端を担ったに違いない。
その後横須賀沿岸などの測量にも絵図方として参加したが、大政奉還(1867)を迎え、荒井郁之助らと同様に榎本武揚と行動を共に戊辰戦争に従軍し敗戦、維新を迎える。維新後は、他の幕臣と同様に一時期謹慎するが、静岡学問所の図画担当教師を経て新政府に仕える。新政府では、兵部省や海軍省繰練所などを経て、明治5年(1872)には、名を改めた海軍兵学校に日本画の大家橋本雅邦らとともに勤務している。
明治6年には、ウイーンで開催された万国博覧会に事務官随行として参加した後、銅版画や石版画の技法をウイーン地図学校などで取得して翌年帰国した。
帰国後、紙幣寮、修史局を経て内務省地理局勤務となり、多くの銅版や石版技術者を育成したといい、この間に「地理製図式」(明治9年)、「測絵図譜」(明治11年)などの刊行にあたり、銅版技術を生かして内務省地理局編輯五千分の一の「兵庫神戸」、「横浜」の作成にもあたった。
明治10年「銅板絵入 懐中東京案内(福田栄造編)」には、「有名銅版所」や銅版を成すものとして岩橋教章の名がある。明治14年には、内国勧業博覧会審査官となり、明治16年に病死した。三重県立美術館には、岩橋の手になる絵画「鴨の静物」が残されている。墓は、谷中墓地乙1号7側19番にある。
岩橋教章は、天保6年(1835)鳥羽藩士岩橋庄助の長男として生まれた。長じて、医師で洋学者であった安藤文沢に学ぶと同時に、狩野派を学んだという。家督を継いだ教章は、幕府操練所に出仕して、神奈川港の実測図調製に際しては絵図方助手として、江戸湾測量にも荒井郁之助らとともに従事していた。その文久元年(1861)10月には、幕府御軍艦繰練所絵図方出役に任じられた。
翌文久2年の幕府による伊勢・志摩、尾張沿岸の測量には、後に初代水路部長となる当時津藩の柳楢悦らとこれに加わったという。その成果は「伊勢志摩尾張付紀伊三河」となり、航海用沿岸海図の最初のものとなったが、岩橋も絵図方として、その一端を担ったに違いない。
その後横須賀沿岸などの測量にも絵図方として参加したが、大政奉還(1867)を迎え、荒井郁之助らと同様に榎本武揚と行動を共に戊辰戦争に従軍し敗戦、維新を迎える。維新後は、他の幕臣と同様に一時期謹慎するが、静岡学問所の図画担当教師を経て新政府に仕える。新政府では、兵部省や海軍省繰練所などを経て、明治5年(1872)には、名を改めた海軍兵学校に日本画の大家橋本雅邦らとともに勤務している。
明治6年には、ウイーンで開催された万国博覧会に事務官随行として参加した後、銅版画や石版画の技法をウイーン地図学校などで取得して翌年帰国した。
帰国後、紙幣寮、修史局を経て内務省地理局勤務となり、多くの銅版や石版技術者を育成したといい、この間に「地理製図式」(明治9年)、「測絵図譜」(明治11年)などの刊行にあたり、銅版技術を生かして内務省地理局編輯五千分の一の「兵庫神戸」、「横浜」の作成にもあたった。
明治10年「銅板絵入 懐中東京案内(福田栄造編)」には、「有名銅版所」や銅版を成すものとして岩橋教章の名がある。明治14年には、内国勧業博覧会審査官となり、明治16年に病死した。三重県立美術館には、岩橋の手になる絵画「鴨の静物」が残されている。墓は、谷中墓地乙1号7側19番にある。
岩橋教章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/22 13:52 UTC 版)
岩橋 教章(いわはし のりあき、天保6年2月5日(1835年3月3日) - 明治16年(1883年)2月4日[1])は、幕末・明治の地図制作者、洋画家、版画家。
- ^ 谷中霊園の墓籍台帳や、『公文録』収録の「故岩橋教章祭粢料下賜伺書」の記載より。生年については天保3年(1832年)とする説もあるがこちらのほうが正しいと考えられる。
- ^ 井野(2004)p.48
- ^ 海軍兵学校編 『海軍兵学校沿革』 1919年。原書房より1968年復刊。
- ^ 海軍兵学校の明治4年職員名簿に製図掛・兵学少属といして「狩野辰信(静岡)、重之」とあり、これが重次のことか(井野(2004)p.62)。
- ^ 矢田挿雲『江戸から東京へ』 再建社、1953年。
- ^ 「第二階内国勧業博覧会審査評語 下」『明治美術基礎資料集 内国勧業博覧会絵画共進会(第一・二回)編』 東京国立文化財研究所、1975年
- ^ ただし、牧野研一郎「岩橋教章の周辺」(『びる・うぃんど』第17号、三重県立美術館、1986年)では、教章作の可能性がある油彩画として「柳楢悦像」を挙げている。
- ^ 霜村紀子 「「箱館戦争図会」を描いた岩橋教章について」『函館昔話』13号、函館パルス企画、2001年。
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