江戸無血開城の立役者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 19:35 UTC 版)
詳細は「江戸開城」を参照 慶応4年(1868年)、新たに設立された精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜の使者として3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して談判する。 2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ない、と述べ義弟である鉄舟を推薦する。鉄舟は慶喜から直々に使者としての命を受け、駿府へ行く前に勝海舟に面会する。海舟と鉄舟は初対面であり、海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていたが、面会して鉄舟の人物を認めた。打つ手がなかった海舟はこのような状況を伝征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書を授ける。海舟の使者と説明されることが多いが、正しくは広義も含め慶喜の使者である。 この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。 3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、 一、江戸城を明け渡す。 一、城中の兵を向島に移す。 一、兵器をすべて差し出す。 一、軍艦をすべて引き渡す。 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。 というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって江戸無血開城への道が開かれることとなった。江戸無血開城の中身は鉄舟と西郷の交渉でほとんど決まっている。 3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。徳川慶喜は謹慎先の水戸へ向かう前夜、山岡鉄舟は慶喜の御前に召し出され、慶喜は「(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と、慶喜自ら「来国俊」の短刀を鉄舟に与えた。
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