江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門
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「郡上一揆」の記事における「江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門」の解説
郡上一揆の裁判が進む中、老中を筆頭とする幕府高官が処罰を受けるのを見た江戸町民は事件に関する関心を高めた。事件は「金森騒動」と言われるようになり、失脚した幕府高官や金森家を痛烈にあてこすった川柳、狂歌などが数多く作られた。 また講釈師馬場文耕は幕府評定所で進められていた裁判の情報を入手し、金森家による郡上藩の乱脈極まる支配の様子や、金森家と幕府高官との癒着についての情報を集め、講談としてまとめた。馬場は講談を執筆するに当たり郡上一揆関係者の農民からも取材したと考えられている。 馬場文耕はもともと主に明君徳川吉宗を顕彰する講談を発表してきた講談師であり、鋭い社会批判や政治批判を題材としていたわけではない。しかし宝暦8年(1758年)頃から社会や政治批判を明確にした講談を行うようになっていた。そのような中で馬場は江戸で話題となった金森騒動を題材とした講談を執筆し、発表した。この当時、百姓一揆を題材とした講談や本がしばしば発表されていた。内容的には太平記などの軍記物語からの引用、比喩を基本として、例えば高師直をモデルとした悪役(悪代官など)を、楠木正成をモデルとした正義の味方が懲らしめるという内容であり、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといった筋書きであった。 馬場文耕は宝暦8年9月10日(1758年10月11日)から「武徳太平記、珍説もりの雫」と題した、評定所での郡上藩関連の吟味についての講談を行った。宝暦8年9月16日(1758年10月17日)、200名あまりの聴衆で超満員の中、講談を終えた馬場は南町奉行所の同心に捕縛された。馬場は吟味中も政治批判の手を緩めることは無く、評定所での金森家関連の裁判について幕府批判を続けた。幕閣中枢にまで処分が及ぶことになった郡上一揆の裁判を主題とした講談は幕府支配の綻びを指摘する行為と取られ、馬場文耕の講談は弾圧の対象となったが、罪状としては本来なら遠島相当であった。しかし取調べ中も政治批判を続けたことが問題視され、宝暦8年12月29日(1759年1月27日)、馬場文耕は市中引き回しの上打首、獄門とされた。また講釈会場の家主など関係者も軽追放、所払いなどの判決を受けた。 もともと市井で徳川吉宗の善政を題材としてきた講談師馬場文耕が、幕閣中枢まで処罰が及んだ郡上一揆の裁判を題材とした講談を発表し、逮捕されて取調べ中も幕府政治批判を繰り返し獄門に処せられた事実は、当時しばしば発表されていた一揆を題材とした講談や本における、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといったストーリーでは括りきれないものを示している。これは郡上一揆が発生した宝暦期、これまでの秩序の綻びが見え始め、政治秩序の行き詰まりが明らかとなってきたことの現れと評価できる。
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