江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門とは? わかりやすく解説

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江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門」の解説

郡上一揆裁判が進む中、老中筆頭とする幕府高官処罰を受けるのを見た江戸町民は事件に関する関心高めた事件は「金森騒動と言われるようになり、失脚した幕府高官金森家痛烈にあてこすった川柳狂歌などが数多く作られた。 また講釈師馬場文耕幕府評定所進められていた裁判情報入手し金森家による郡上藩乱脈極まる支配様子や、金森家幕府高官との癒着についての情報集め講談としてまとめた。馬場講談執筆するに当たり郡上一揆関係者農民からも取材した考えられている。 馬場文耕はもともと主に明君徳川吉宗顕彰する講談発表してきた講談師であり、鋭い社会批判政治批判題材としていたわけではない。しかし宝暦8年1758年)頃から社会政治批判明確にした講談を行うようになっていた。そのような中で馬場江戸で話題となった金森騒動題材とした講談執筆し発表した。この当時百姓一揆題材とした講談や本がしばしば発表されていた。内容的に太平記などの軍記物語からの引用比喩基本として、例え高師直モデルとした悪役悪代官など)を、楠木正成モデルとした正義の味方懲らしめるという内容であり、農民苦しめ悪代官悪臣明君によって放逐され秩序回復するといった筋書きであった馬場文耕宝暦8年9月10日1758年10月11日)から「武徳太平記珍説もりの」と題した評定所での郡上藩関連吟味についての講談行った宝暦8年9月16日1758年10月17日)、200名あまりの聴衆超満員の中、講談終えた馬場南町奉行所同心捕縛された。馬場吟味中も政治批判の手緩めることは無く評定所での金森家関連裁判について幕府批判続けた幕閣中枢にまで処分が及ぶことになった郡上一揆裁判主題とした講談幕府支配綻び指摘する行為取られ馬場文耕講談弾圧対象となったが、罪状としては本来なら遠島相当であった。しかし取調べ中も政治批判続けたことが問題視され宝暦8年12月29日1759年1月27日)、馬場文耕市中引き回しの上打首獄門とされた。また講釈会場家主など関係者軽追放所払いなどの判決受けた。 もともと市井徳川吉宗善政題材としてき講談師馬場文耕が、幕閣中枢まで処罰及んだ郡上一揆裁判題材とした講談発表し逮捕され取調べ中も幕府政治批判繰り返し獄門処せられた事実は、当時しばしば発表されていた一揆題材とした講談本における、農民苦しめ悪代官悪臣明君によって放逐され秩序回復するといったストーリーでは括りきれないものを示している。これは郡上一揆発生した宝暦期、これまでの秩序綻び見え始め政治秩序行き詰まりが明らかとなってきたことの現れ評価できる

※この「江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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