江戸移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 09:01 UTC 版)
1842年(天保13年)、善応寺住職を辞して江戸におもむき、矢ノ倉町(現・東日本橋)に移住。平田篤胤の門にて国学を学ぶ。翌1843年(天保14年)6月、国学の復古を志し、勤王を誓うために還俗。その足で鹿島神宮に参詣し、桜樹千株を奉献する。その桜にちなみ、佐久良靱負東雄に改名する(「靱負」(ゆきえ)には、雪のように潔く消える、という意味を込めている)。この桜は現在も鹿島神宮の鹿園の反対側の森に「東雄桜」として残されている。この時に東雄が鹿島神宮に奉じた祝詞「豊香島天津大御神乃大御社爾桜木殖奉留詞」は、明治維新後、福羽美静を通して明治天皇に天覧されることとなる。 また1844年(弘化元年)、水戸藩奥医師である鈴木玄兆の娘であり、鈴木宗與(『救民妙薬』の著者とは別人)の妹である輝子と結婚。輝子との間に二男二女を儲けた(長男久丸は早世、次男は巌、長女は峯、次女は春)。
※この「江戸移住」の解説は、「佐久良東雄」の解説の一部です。
「江戸移住」を含む「佐久良東雄」の記事については、「佐久良東雄」の概要を参照ください。
- 江戸移住のページへのリンク