江戸留学
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文化14年(1817年)3月24日江戸へ出発し、富山吉川家、稲荷町天満宮等に立ち寄り、4月9日到着した。江戸では父と親交のあった南伝馬町二丁目の布袋庵脇坂義堂宅に逗留し、幸庵の添書で大槻玄沢、杉田立卿、吉川の添書で市河寛斎・米庵、東林師の添書で大窪詩仏に入門した。 玄沢の芝蘭堂に入門して間もなく、杉田玄白の追悼詩を玄沢に渡したが、「俗気甚し」「村学究」として激怒の上破り捨てられたと塾頭から聞き、以降蘭学、医学に専念した。江戸滞在中、号を浩斎と改めた。中元頃父に帰国を促され、東海道回りで岡崎宿、苗木、下呂、高山荏名神社を経て帰郷した。
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江戸留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
天保6年(1835年)5月江戸に行き、田中葵園の勧めで佐藤一斎に入門して陽明学を学んだが、天保8年(1837年)7月、義父の病を聞いて帰島し、8月看取り、三平を襲名した。天保9年(1838年)9月江戸に上り、義父が亀田鵬斎に折衷学を学んだため、その遺志を継いで亀田綾瀬の塾に入学した。塾頭芳野金陵は外部に出仕し、亀田鴬谷は師家を継いだため、天保10年(1839年)11月溟北が塾頭を務めることとなり、武家諸屋敷で講義の代行を行った。同窓には山田菊翁、新井大年、出井炳文、田中桐所、釈貫道等。江戸滞在中、相模国浦賀や下総国国府台に遊んだ。
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