倒幕の象徴(1853〜1868年)
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「村正」の記事における「倒幕の象徴(1853〜1868年)」の解説
「#匕首腰間鳴」も参照 このように村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、当の幕府自身も含めて、幕末の頃には完全に定着していた。1854年から、維新の志士の一人岡谷繁実は『名将言行録』を書き始め(出版は維新後の1869年)、この中の真田幸村伝で、幸村は村正を常に帯刀していたと水戸光圀が褒めていたという文章が『桃源遺事』から引用されるなど、倒幕の刀としての村正が意識されていたことがわかる。このため徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重され、西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたという。急な需要増加のため、市場には多数の村正のニセ物が出回ることになった(#三品広房)。また、有栖川宮熾仁親王も本来は親王が持つ格ではない村正を所持していた。三条実美も太宰府天満宮に村正の短刀を奉納し、王政復古の大願成就を祈願している。 本阿弥光遜が西郷隆盛の遺品を調査したところ(『南洲遺愛刀台帳』)、隆盛は鉄扇仕込みの村正の短刀(銘「村正」)を所持しており、鉄扇の親骨には「匕首腰間鳴蕭々北風起/平生壮士心可以照寒水」という詩が刻まれていた。古代中国の侠客荊軻が、地図に隠した匕首(短刀)ただ一口だけを手に蕭々と(物寂しく)風が鳴る冷たい川を渡り、秦始皇帝暗殺の旅、不帰の旅へと出る前に吟じた詩のオマージュと思われ、隆盛の気概を感じる事ができる。 熾仁親王も隆盛も江戸無血開城の立役者である。最後まで村正は徳川家に仇をなしたのか、という『西日本新聞』記者の問いに、渡邉妙子は、むしろ親王の村正は徳川家と江戸の人々を守ったのではないか、と答えている。
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