倒壊とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
1976年(昭和51年)7月の自溶炉閉鎖後、大煙突の老化がささやかれるようになった。煙突表面の汚れやコンクリートの脱落が目立つようになってきたのである。1991年(平成3年)の夏頃には大煙突の一部に穴が開いているのが確認され、斜めに亀裂が走っているのも発見された。このような大煙突の老朽化が明らかとなったため、煙突の保全策の検討が始まり、ゼネコンへの接触も始めていた。しかし修理を行うにしても大煙突の巨大さと現場の足場の悪さ、そして何よりも作業中にコンクリート片が落下する危険性があり、修理を行うにしても困難が予想された。 1992年(平成4年)11月末には大煙突最上部の鉢巻部分の一部が欠けたことが確認された。そして1993年(平成5年)に入ると、煙突本体が傾いていることが観察された。これは大煙突にいよいよ寿命が訪れようとしている予兆と見られた。 1993年(平成5年)2月19日、大煙突は下部約3分の1を残して倒壊し、煙突の倒壊によって落下したコンクリートによって煙道の一部も破損した。倒壊の原因は1974年(昭和49年)に名古屋大学工学部土木工学科が大煙突の調査を実施した際に指摘した、建設時にコンクリートの打ち継目処理が不十分であった点にあると考えられている。また崩落したコンクリートの量は約1,200トンと推定された。大煙突の倒壊は煙突を長年シンボルとしてきた日立市民に大きな衝撃を与えた。マスコミ各社は日立のシンボルの倒壊を報道し、大煙突の周辺は危険防止のために立ち入り禁止とされたが、連日多くの市民が大煙突の倒壊現場近くを訪れ、また大煙突を望む大雄院にも多くの市民が詰め掛けた。 大煙突の倒壊後、日立市民文化事業団を中心として大煙突記念碑建設委員会が結成された。大煙突記念碑建設委員会は日立市民、各企業の協力を得て、日立市かみね公園内に1989年(平成元年)11月に建立された『ある町の高い煙突』文学碑の隣に立てることを決定し、大煙突倒壊1周年に当たる1994年(平成6年)2月19日に除幕式が行われた。 大煙突は1993年(平成5年)2月19日の倒壊後、約3分の1の54メートルの高さとなった。倒壊後には改修が行われ、煙突としての利用が継続されている。大煙突が鉱害問題への対処のモデルケースとして称揚されていることについては、虚像に基づくものであると批判する意見もある。一方、日立鉱山の流れを汲むJX金属(日鉱金属→JX日鉱日石金属を経て現社名に改名)では、困難に直面しても問題に真正面から取り組み、企業活動と地域との共存共栄を目指すという「大煙突精神」が企業グループの理念として生き続けているとしており、高さは往時の3分の1となってしまったものの大煙突が持つ意味は今なお色あせていないとしている。
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