倒幕から幕府創設までとは? わかりやすく解説

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倒幕から幕府創設まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:37 UTC 版)

足利直義」の記事における「倒幕から幕府創設まで」の解説

足利氏慣例従い二人の兄同様に初めは、得宗鎌倉幕府執権)・北条高時より賜った偏諱祖先にあたる源義国一字により高国(たかくに)と名乗るが、桓武平氏称した北条氏(本来であれば家格が劣る)が実権を握る幕府叛旗翻した後は、河内源氏通字である「義」を用いた忠義ただよし)、直義ただよし)に改名する元弘3年/正慶2年1333年)、後醍醐天皇配流先の隠岐島脱出して鎌倉幕府打倒兵を挙げると、兄の高氏とともにこれに味方し六波羅探題攻め参加する建武の新政では左馬頭任じられ鎌倉府将軍成良親王奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府基礎を築く。建武2年1335年)、中先代の乱起こり高時遺児時行が信濃国挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢(現東京都町田市本町田)の合戦にて反乱軍迎撃する敗れる。反乱軍鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王配下淵辺義博命じて混乱の中で殺害させ、足利氏拠点となっていた三河国矢作愛知県岡崎市)へと逃れた。もっとも、成良親王無事に京都送り返されており、護良親王殺害建武政権立場立った行動であった同年後醍醐天皇無断来援した尊氏合流する東海道東へ攻勢転じ反乱軍から鎌倉奪還する奪還後も鎌倉に留まった尊氏付き従った将士独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏赦免求めて隠棲する直義らは駿河国手越河原静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃する敗北する手越河原の戦い)。これに危機感持った尊氏出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦い追討軍を破って京都進撃する足利軍入京したものの、延元元年/建武3年1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家楠木正成新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦い敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中備後国鞆の浦にて光厳上皇院宣得て多々良浜の戦い建武政権側の菊池武敏苦戦強いられながらもこれを撃破するなど、西国武士の支持集めて態勢立て直して東上開始海路尊氏軍と陸路直義軍に分かれて進み湊川の戦い兵庫県神戸市)で新田楠木軍を破って再び入京する。

※この「倒幕から幕府創設まで」の解説は、「足利直義」の解説の一部です。
「倒幕から幕府創設まで」を含む「足利直義」の記事については、「足利直義」の概要を参照ください。

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