倒幕派の対応とは? わかりやすく解説

倒幕派の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:27 UTC 版)

大政奉還」の記事における「倒幕派の対応」の解説

大政奉還上表同日10月14日)、岩倉具視から薩摩藩長州藩討幕の密勅ひそかに渡された。この密勅には天皇による日付裁可記入がないなど、詔書形式整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった大政奉還が行われた時点においては岩倉倒幕派公家朝廷内の主導権掌握していなかった。前年12月孝明天皇崩御を受け、1月9日践祚した明治天皇は満15歳若年で、親幕府派である関白二条斉敬摂政就任した一方三条実美ら親長州急進派公家文久3年1863年)の八月十八日の政変以来、京から追放されたままであった。 つまりこの時期朝廷二条摂政賀陽宮朝彦親王中川宮維新後久邇宮)ら親幕府の上公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還なされても、このような朝廷の下に開かれる新政府公武合体政府)は慶喜主導になることが当然予想された。薩長岩倉討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の幕府中心摂政関白その他従来役職廃止して体制刷新し朝廷実権掌握する必要があった。討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権持たない岩倉倒幕派中下公家薩長側が、慶喜そうした狙い対抗する非常手段として画策したものである。 しかし、予想外大政奉還動き倒幕派混乱し小松帯刀吉井友実岩倉具視のように大政奉還行った慶喜評価するものも存在したこのため混乱避けるため武力蜂起計画立てていた薩摩藩はしばらく様子見をすることとなった10月21日には諸侯会議収拾までの間、諸政幕府委任するかどうかという諮問朝廷ら行われているが、薩摩藩もこれに賛成している。しかし大久保利通西郷隆盛薩摩藩武力倒幕派慶喜への警戒を解かず、最終的に武力による幕府打倒藩論統一し11月29日には藩主島津茂久の率兵上洛12月9日王政復古クーデターへと向かっていくことになる。

※この「倒幕派の対応」の解説は、「大政奉還」の解説の一部です。
「倒幕派の対応」を含む「大政奉還」の記事については、「大政奉還」の概要を参照ください。

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