豊島河原合戦
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 20:16 UTC 版)
| 豊島河原合戦 | |
|---|---|
合戦があったとされる豊島河原 (箕面川下流の河原) |
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| 戦争:建武の乱 | |
| 年月日:建武3年2月10日・2月11日(1336年3月23日・3月24日) | |
| 場所:豊島河原(大阪府箕面市・池田市) | |
| 結果:新田義貞・北畠顕家側(後醍醐天皇軍)の勝利、足利尊氏の敗走 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 約10万(太平記) | 約20万(太平記) |
| 損害 | |
| - | - |
豊島河原合戦(てしまがわらがっせん)は、建武3年(1336年)に行われた新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。豊島河原の戦いとも言う。
合戦経緯
元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府が滅びた後、足利尊氏は後醍醐天皇に突如反旗を翻した。尊氏は建武2年(1335年)箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞軍を破ると、京都へ進軍を始めた。
尊氏は建武3年(1336年)1月11日に京都へ到着するが、京都へ駆け付けた北畠顕家軍に攻め入られ、同月27日の合戦と同晦日の糺河原の合戦における敗戦を経て丹波国に引き返す事となる。
開戦
丹波国に引き返した足利尊氏は勢力を盛り返し、再度京都に攻め入る為に、同年2月3日に摂津国猪名川付近へ到着する。これに対して後醍醐天皇側の新田義貞・北畠顕家勢は軍を率いて尊氏が陣を張る摂津へ向かう。
太平記の記述
『太平記』(巻第十五)によると、足利尊氏は摂津国に入って湊川に着陣し、その軍勢は約20万騎に及んだ。これに対し、2月5日に新田義貞・北畠顕家率いる約10万騎が京都を進発し「芥河」に着陣した。尊氏は足利直義に約16万の軍勢を与えて京都に向けて攻め上らせた。2月6日の巳の刻、両軍は摂津国豊島河原で行き合い合戦を行ったが、その日は勝敗が付かなかった。後醍醐側として参戦した楠木正成は、神崎に迂回して直義軍の背後(浜の南)に進んだため、直義は兵庫を目指して撤退した。新田義貞は追撃の構えで西宮に進んだ。
2月7日朝、周防国・長門国の守護大名が送り込んだ500隻の船団が摂津の海域に現れ、うち200隻は兵庫湊に入り、300隻が西宮に漕ぎ寄せた。後醍醐天皇側軍も四国の伊予国から土居・得能らの援軍が到着し、両軍は小清水(現在の西宮市越水町周辺)で戦闘を開始した。土居・得能らは足利方が本陣を置いていた打出宿(現在の芦屋市)に迫り、直義・尊氏は兵庫へ向かって敗走した。足利方の20万騎が300隻の船に乗ろうとしたため、2000人が乗った大船が沈没したり、あるいは船に乗ろうとした人々をすでに船に乗った人々が打ち殺したり、あるいは船に乗れなかった者が浜辺で自害したりと、甚だしい混乱に陥った。尊氏は福原をも支えきれずに西方へ落ち、一方義貞は数万の降人を従えて都に凱旋した。
梅松論の記述
『梅松論』(30)によると、足利尊氏側に味方した山陽周防国(現:山口県東南)・長門国(現:山口県西)の守護大名が瀬戸内海を渡り、約500の軍艦を率いて摂津国神戸港に入港した。尊氏側は2月10日に周防・長門の援軍に合流して港を出て都に攻め上ろうとするが、西宮浜で待ち構えていた楠木正成と合戦になり終日戦って決着がつかなった。しかし同日夜に正成は陣を引いたため、尊氏は合流した援軍を従えて翌2月11日に攻め上り新田義貞・北畠顕家両軍と豊島河原(瀬川)で合戦を繰り広げた。その結果尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り、同月12日に兵庫へ退陣した。その後尊氏は周防・長門の援軍と共に九州へ落ち延びて行ったと書かれている。
合戦場
「豊島河原」とされている場所は不明であるが、『梅松論』には「新田義貞は摂津国瀬川の河原にて合戦を行った」と記述があり、「瀬川の河原」と伝わるのは、箕面川の下流で箕面市と池田市の境界を接する河原であると見られている。
関連項目
参考文献
外部リンク
- 豊中の歴史と歩み(豊中市) - 市のホームページの中で、豊島河原合戦について触れている。
- 豊中市議会議員レポート
固有名詞の分類
- 豊島河原合戦のページへのリンク