京への進撃と足利尊氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:19 UTC 版)
「北畠顕家」の記事における「京への進撃と足利尊氏との戦い」の解説
その後、11月に朝廷は尊氏の追討を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。 12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する。軍記物『太平記』は、その兵数は5万と描写している。 翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮・桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した。 なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。 その後、顕家軍は琵琶湖を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・楠木正成と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した。 1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は逃げた。さらには高師直と関山で戦闘した。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで義貞・正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功する。 2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃した。 2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日に京へと凱旋した。
※この「京への進撃と足利尊氏との戦い」の解説は、「北畠顕家」の解説の一部です。
「京への進撃と足利尊氏との戦い」を含む「北畠顕家」の記事については、「北畠顕家」の概要を参照ください。
- 京への進撃と足利尊氏との戦いのページへのリンク