京ものの大発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 06:45 UTC 版)
この後、手事もの作曲の主流は京都に移る。まず松浦検校が京都風な洗練を加えた手事ものの曲を多く作り、以後京都で作曲された手事もの地歌を「京もの」「京流手事もの」と呼ぶようになる。さらに菊岡検校(1792年 - 1847年)が京都で手事物を多数作曲した。それらのほとんどの曲には、同時代に活躍した八重崎検校(1776年 - 1848年)が箏のパートを作曲しており、地歌・箏曲の合奏曲として発展し、地歌としても最盛期を迎えたといえる。と同時に、地歌と箏曲はほとんど一体化した。他にも、京都の石川勾当が「八重衣」「新青柳」「融」など、非常に長大で複雑な技巧を尽くした曲を残している。また光崎検校も『七小町』、『夜々の星』等を作った。ここに来て、地歌はもはやこれ以上進む余地がないほど三味線の技巧の極致に達した。
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