合戦場
合戦場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)
詳細は「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」を参照 「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されている。 一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村の辺りにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではない。桶狭間は慶長13年(1608年)検地で村名となっている。なお小瀬甫庵『甫庵信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されていて、江戸時代に出版されたので広がったが、脚色であり史料的には信頼性がなくなっている。田楽狭間は、大字で、その初見は寛永元年(1624年)山澄英龍『桶狭合戦記』でそれ以前にはない。 藤本正行 : 一地点の丘ではなく、中嶋砦の東側の一帯の丘陵を指す。 小和田哲男 : 「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートルの地点と特定し頂上に本陣があったとする。この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる。織田軍2,000人と今川軍5,000人がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市の方で戦死したのではないかとしている。 小島廣次 : 上記の豊明市の古戦場の南方にある標高64.7メートル丘の北側の高地との間の鞍部に本陣があった。 磯田道史 : 入手した『天保11年道中日記』(1840年。甲斐国八代郡南田中村(現・山梨県笛吹市一宮町)田中伝左衛門著)には「桶はざま。往来より左の方、半丁(54m)ばかり奥。今川義元公戦死の場所ならびに七将の墓、有」と記されている。また磯田によれば、明和8年(1771年)桶狭間古戦場に「七石表」という今川義元らの石碑が建立され、それを見たのではないかという。
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合戦場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
「豊島河原」とされている場所は不明であるが、『梅松論』には「新田義貞は摂津国瀬川の河原にて合戦を行った」と記述があり、「瀬川の河原」と伝わるのは、箕面川の下流で箕面市と池田市の境界を接する河原であると見られている。
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