合戦勃発の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:15 UTC 版)
「ミルウィウス橋の戦い」の記事における「合戦勃発の経緯」の解説
戦いが起こった根本要因はディオクレティアヌスによる「テトラルキア」によるものであった。すなわち、強力なリーダーシップを持つディオクレティアヌスと同僚皇帝のマクシミアヌスが退いたことで、同等程度の力を持つ皇帝たちがローマ帝国の支配権を巡って言い争いを始めたことである。 この戦いの一方の当事者となるコンスタンティヌスの父はローマ西方の正皇帝コンスタンティウス・クロルスであり、306年7月25日にクロルスが死去した後に、コンスタンティヌスは後継皇帝としてエボラクム(現:ヨーク)で皇帝を宣言した。マクセンティウスは、前述マクシミアヌスの息子であったが、ローマ市内で同じ年の10月28日に皇帝就任を宣言した。 コンスタンティヌスとマクセンティウスは互いに激しい敵愾心を持ち、マクセンティウスの妹ファウスタがコンスタンティヌスに嫁いでも変わることは無かった。312年春、コンスタンティヌスはマクセンティウスとの争いに決着を付けるべく、イタリア北部へと軍を進めて、トリノとヴェローナでの2つの戦いに勝利を収めて、マクセンティウス派の重臣でプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛隊長官)のルリキウス・ポンペイアヌスを討ち取った。
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