合戦以前の情勢と経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 01:11 UTC 版)
稲生の戦いを起こした信長と信行(信勝)は、織田弾正忠家(以下、織田家)の織田信秀の子であり、実の兄弟であった。尾張下四郡を支配する守護代で清洲織田氏(織田大和守家)の重臣たる清洲三奉行の一人、という位置から頭角を現した信秀は、国内の分裂を制していったことに加え、領土の隣接する三河の松平氏や駿河の今川氏、美濃の斎藤氏らとも争って、一代で尾張国内外に勢力を拡大した。しかし信秀は天文20年(1551年)に急死し、跡を嫡男で那古野城主の信長が継いだ。信長の同父同母弟である信行は、兄とは離れ信秀晩年の居城である末森城に居住していた。 信長は1555年、尾張守護の斯波氏の権威を利用して主筋の清洲織田氏の下四郡守護代織田信友を滅ぼしたのち、尾張守護所であった清洲城に移り、父の残した勢力を着実に拡大していった。しかし信長は平素から素行が悪く、「うつけ者」と呼ばれるほどであったのに加え、天文22年(1553年)には傅役であった平手政秀が自殺(諫死とされる)する事件が起こった。家中の一部からは頭領に相応しくないと目されていた、と伝わる。 こうした風評がある中、三河との国境の要衝の鳴海城を守っていた山口教継が謀反を起こして今川氏に寝返った。また1556年には美濃で政変が起こり、信長の舅であり後ろ盾であった美濃国主斎藤道三が嫡子義龍との戦いで敗死し、さらに尾張上四郡を支配する守護代で嫡流の岩倉織田氏(織田伊勢守家)が義龍と手を結んで敵対するなど、信長の周辺は困難な情勢が続いた。 このような状況下で、信長では織田弾正忠家をまとめられないと考えた宿老の林秀貞とその弟林美作守(通具)、信行老臣の柴田勝家らが結託し、信長を排除して家中でも評価の高い信行に家督を継がせようとした。信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称し、信長の直轄領である篠木などを押領し、砦を構えるなどして、信長に対し反抗の意思を示した。 弟らの不穏な動きは信長の察知するところとなり、8月22日、佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせた。そして8月24日、両勢力による稲生原での合戦に至った。
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