合戦前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:59 UTC 版)
天正12年(1584年)4月における小牧・長久手の戦い以降、尾張北部の戦線は防御陣地の構築によって膠着状態に陥っており、家康は清洲城、信雄は桑名城、秀吉は大坂城にそれぞれ帰還していた。 尾張北西部においては、羽柴勢が5月4日から美濃の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍で囲み、水攻めなどで順次攻略したが、家康は清洲城から動かなかった(竹ヶ鼻城の水攻め)。 そして尾張南西部では、秀吉はすでに出家していた滝川一益と、その嫡子一忠をそれぞれ3千石、1万2千石で起用し、諸城攻略を命じていた。また一益は、織田信雄側の水軍の将九鬼嘉隆とは、多くの戦場を共に戦っていた。 その頃、織田方の蟹江城主佐久間信栄は信雄の命により伊勢国の萱生に砦を築くため、蟹江城の留守を叔父の佐久間信辰と前田城主前田長定(種定)に預けていた。 この頃の蟹江城は、家康の清洲城と信雄の長島城からそれぞれ三里程の中間に位置し、三重の堀と、大野城・下市場城・前田城の3つの城と連携していた。当時、蟹江は海に面しており、熱田、津島と並ぶ尾張有数の港であった。前田種定は滝川一益と同じく、加賀前田家の親類であった。また滝川一益は過去に、桑名城主、蟹江城主でもあった。
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