“松川合戦”前夜とは? わかりやすく解説

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“松川合戦”前夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 22:55 UTC 版)

松川の戦い」の記事における「“松川合戦”前夜」の解説

慶長3年1598年)に豊臣秀吉死去すると、翌年3月前田利家死去石田三成失脚経て徳川家康権力がますます増大した慶長4年1599年8月上杉景勝所領会津若松城帰城した。景勝前年初めに秀吉の命により越後国春日山城から会津120万石国替えになったばかりであり、領内統治をほとんど施していない状況であった景勝は早速、領内道路開削整備支城普請等など領内整備おこなったまた、居城新たに新築して会津若松城から遷すことを考え若松城から北西3kmのあたりに築城開始した神指城)。しかし、隣国越後堀秀治は、このような上杉領内動き逐一徳川家康報告したその内容上杉氏隣国堀秀治最上義光領内攻めることを目的道路支城整備居城築城をおこなっているという旨のものであったまた、景勝家臣藤田信吉江戸城出奔し徳川秀忠上杉方の内情話した家康景勝上洛して弁明するよう求めた。しかし景勝はその申し出拒絶したため、家康景勝謀反人みなして諸大名上杉氏征討命じた慶長5年1600年6月6日大坂城西出丸において軍議招集され家康秀忠白河口、佐竹義宣仙道口、伊達政宗白石口、前田利長堀秀治越後口と布陣決定した家康6月18日伏見城出発し江戸城経て7月下旬下野国小山着陣一方白石口を担当することになった伊達政宗急ぎ京都発ち相馬領を経由して帰国し7月12日名取郡北目城へ入り、ここを上杉攻め拠点とした。しかし、上方石田三成家康打倒挙兵をしたことを知った家康は、白河口を次男結城秀康任せ、自らは江戸城引き返した。これを知った景勝家康追撃をおこなわずに会津若松城引き上げた。 そして、上杉氏との同盟破棄して家康方に付くことを鮮明にした最上義光山形城家臣直江兼続攻め入らせた。直江軍は怒濤の如く山形城向かって進撃しついには山形城支城である長谷堂城取り囲むいたった長谷堂城の戦い)。一方政宗刈田郡進撃し白石城落としたこのような状況の中、9月15日関ヶ原の戦いにおいて徳川方東軍)が勝利した旨の報告が各陣営に届く。直江兼続長谷堂城囲い解き、自領へ撤退したのである

※この「“松川合戦”前夜」の解説は、「松川の戦い」の解説の一部です。
「“松川合戦”前夜」を含む「松川の戦い」の記事については、「松川の戦い」の概要を参照ください。

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