“松川合戦”前夜
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慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、翌年3月の前田利家の死去、石田三成の失脚を経て、徳川家康の権力がますます増大した。慶長4年(1599年)8月、上杉景勝は所領の会津若松城へ帰城した。景勝は前年初めに秀吉の命により越後国春日山城から会津領120万石へ国替えになったばかりであり、領内統治をほとんど施していない状況であった。景勝は早速、領内の道路の開削・整備や支城の普請等など領内の整備をおこなった。 また、居城を新たに新築して会津若松城から遷すことを考え、若松城から北西3kmのあたりに築城を開始した(神指城)。しかし、隣国越後の堀秀治は、このような上杉領内の動きを逐一徳川家康へ報告した。その内容は上杉氏が隣国の堀秀治や最上義光の領内を攻めることを目的に道路や支城の整備・居城の築城をおこなっているという旨のものであった。また、景勝家臣・藤田信吉が江戸城へ出奔し、徳川秀忠に上杉方の内情を話した。家康は景勝に上洛して弁明するよう求めた。しかし景勝はその申し出を拒絶したため、家康は景勝を謀反人とみなして諸大名に上杉氏征討を命じた。 慶長5年(1600年)6月6日、大坂城西出丸において軍議が招集され、家康・秀忠が白河口、佐竹義宣が仙道口、伊達政宗が白石口、前田利長・堀秀治が越後口と布陣が決定した。家康は6月18日に伏見城を出発し、江戸城を経て7月下旬に下野国小山へ着陣。一方、白石口を担当することになった伊達政宗は急ぎ京都を発ち、相馬領を経由して帰国し、7月12日に名取郡北目城へ入り、ここを上杉攻めの拠点とした。しかし、上方で石田三成が家康打倒の挙兵をしたことを知った家康は、白河口を次男の結城秀康に任せ、自らは江戸城に引き返した。これを知った景勝は家康追撃をおこなわずに会津若松城へ引き上げた。 そして、上杉氏との同盟を破棄して家康方に付くことを鮮明にした最上義光の山形城を家臣・直江兼続に攻め入らせた。直江軍は怒濤の如く山形城に向かって進撃し、ついには山形城の支城である長谷堂城を取り囲むにいたった(長谷堂城の戦い)。一方政宗は刈田郡に進撃し、白石城を落とした。このような状況の中、9月15日の関ヶ原の戦いにおいて徳川方(東軍)が勝利した旨の報告が各陣営に届く。直江兼続は長谷堂城の囲いを解き、自領へ撤退したのである。
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