竹ヶ鼻城の水攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 14:48 UTC 版)
織田信長の死後、実権を掌握した羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康とが対立し、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが起こった。4月9日、長久手で家康に敗北を喫した秀吉は、作戦を変更して伊勢長島城の信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図った。秀吉は細川忠興らを動員すると、まず5月6日ないし7日に信雄方の加賀野井城を落城させ、翌日には竹ヶ鼻城の北西1キロメートルにある間島村の丘陵に付け城を築いて、そこを本陣とした。 竹ヶ鼻城主不破広綱は長年信長に仕えてきたが、秀吉とも昵懇の間柄だったため、双方のどちらに付くか城内で大評定を開いた結果、信雄に付くことに決していた。このとき籠城したのは700余騎とも7,000余騎ともいわれる。この城は東側に木曽川の支流足近川につながる逆川が流れ、堤防が築かれていた。そこで秀吉は、城の北から西、南へかけても、半円形に約3kmに及ぶ、高さ1丈(約3m)、幅14、5間(約25m)の堤を築き、そこに足近川の水を引き入れて城を水攻めにすることにした。5月11日より、将兵のみならず付近一帯の住民もかり集め、突貫工事を行った。この堤は「一夜堤」と呼ばれるが、実際には5、6日は要したと見られている。 五月雨により増水した足近川の水により、町家は三尺余り(約1m)浸水し、城は二の丸まで冠水した。城内では筏を組んだり簀を張ったりして対処したが、家中には逃げ場を失った鼠や蛇が侵入して婦女子を脅かした。城側は信雄や家康に救援を要請する使者を送るも、本多忠勝や織田長益・滝川雄利による援軍は、秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまった。しかし、秀吉も家康や信雄が自ら出陣して来ないのでは長々と戦いを続けるのも無意味と考え、城主以下全員の命を助ける条件で開城するよう勧告した。これを受け入れた広綱は6月10日に長島の信雄のもとに退去し、竹ヶ鼻城を接収した秀吉も大坂城へ帰還した。 一夜堤の跡(羽島郵便局前) 竹ヶ鼻一夜堤跡(竹鼻町今町交差点横) 一夜堤の跡(羽島市営斎場前)
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