梅松論の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
『梅松論』(30)によると、足利尊氏側に味方した山陽周防国(現:山口県東南)・長門国(現:山口県西)の守護大名が瀬戸内海を渡り、約500の軍艦を率いて摂津国神戸港に入港した。尊氏側は2月10日に周防・長門の援軍に合流して港を出て都に攻め上ろうとするが、西宮浜で待ち構えていた楠木正成と合戦になり終日戦って決着がつかなった。しかし同日夜に正成は陣を引いたため、尊氏は合流した援軍を従えて翌2月11日に攻め上り新田義貞・北畠顕家両軍と豊島河原(瀬川)で合戦を繰り広げた。その結果尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り、同月12日に兵庫へ退陣した。その後尊氏は周防・長門の援軍と共に九州へ落ち延びて行ったと書かれている。
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