太平記の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 11:01 UTC 版)
『太平記』(巻第十五)によると、丹波国に落ち延びた足利尊氏は、2月3日に足利直義に約16万の軍勢を与えて京都へ攻め上らせ、一方約10万騎の新田義貞・北畠顕家率いる後醍醐天皇軍が摂津国豊島河原(瀬川宿)で合戦を行った。結果は両軍共に勝敗が付かず、猪名川両岸で睨み合いが続いた後、後醍醐側として参戦した楠木正成が西宮へ赴き背後から直義・尊氏軍を襲い、西宮に合戦地が移ったとされる。 その後、周防国・長門国の守護大名が神戸港に到着し、後醍醐天皇側軍も四国の伊予国から援軍が到着した。そこで両軍は湊川で合戦を行った。しかし、足利尊氏は自らの敗戦を見切って、周防・長門の援軍と共に九州へ落ち延びて行ったと書かれている。
※この「太平記の記述」の解説は、「豊島河原合戦」の解説の一部です。
「太平記の記述」を含む「豊島河原合戦」の記事については、「豊島河原合戦」の概要を参照ください。
- 太平記の記述のページへのリンク