中世の由岐湊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 15:07 UTC 版)
『平家物語』では「権亮三位中将維盛は、与三兵衛重景、石童丸と、武里と云舎人、此三人を召しぐして、忍びつつ屋島のたちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着給へり、」、『太平記』では「中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。」とあり、これらに登場する雪ノ浦、あるいは雪湊は鎌倉時代から室町時代頃の由岐の港町を指しているものと考えられる。雪ノ湊は東由岐の大池一帯辺りと推定され、大池千軒の伝承も残される。 『太平記』の記述は正平16年/康安元年(1361年)の正平・康安地震津波により、1700軒も建ち並ぶ雪湊の町が津波にさらわれ海底に沈んだことを示す記事であり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。この津波災害の根拠とされているのが、由岐町に現存する、津波災害碑である貞治6年(1367年)に地蔵尊を彫ったとされる貞治の碑および康暦2年(1380年)に建立された康暦碑である。また東由岐の南に位置する由宇には安山岩で造られた九州型板碑があり、当時、雪湊は九州や土佐への中継拠点として栄えたことを窺わせる。また康暦碑のある東由岐の大池から13世紀頃の和泉型瓦器碗や開元通寳から皇宋元寳までの唐 - 宋銭が出土しており、交易が盛んであったと推定される。
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