中世の異端審問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:11 UTC 版)
中世における異端審問の数が増え始めた契機として、1022年にフランスのオルレアンで起きた、異端者の処刑事件がある。この事件が起きた際、オルレアンの会議に召集されたブルージュ大司教のゴーズランは、スペインのビック司教オリバに対し、異端の発覚を憂う手紙を書いている。その後、11世紀中盤までに異端発覚の報告が17件を達し、急増している。その後、11世紀後半には異端発覚の数が沈静化したものの、12世紀に入ると再び急増を始めた。 12世紀に「中世の異端審問」と呼ばれる最初の異端審問が始まったのは、南フランスにおいてカタリ派がその影響力を拡大したことが直接の契機であった。先に述べたようにしばしば異端問題は政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして個別に地域内のカタリ派の捕縛や裁判を行っていたが、そういった従来の方法をまとめた形でだされた1184年の教皇勅書『アド・アボレンダム(甚だしきもののために)』(ルキウス3世)によって教会による公式な異端審問の方法が示された。そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われていた。司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものだった。 教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、このシステムはそれほど厳密に適用されていなかったが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変した。特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は第4ラテラン公会議が採決した異端審問のシステムを帝国法に取り込んで法制化し、自らの権限において最高で死刑にまで処することができるようにした。 一般の告訴訴訟では、事実によって証明された告訴人の証言に基づいて裁判が行われていたが、異端審問の場合は異端審問官が自らが起訴し、自らの裁量で裁く点で大きく異なる。うわさや密告者の証言などを証拠として逮捕でき、被告に証言者の名を告げることもなかったため、悪意による偽証がまかり通った。1252年にインノケンティウス4世によって公式に取り調べに拷問が取り入れられ、被告人に自白が強要された。 1209年に始まったアルビジョア十字軍の結果、異端とされたカタリ派、ヴァルド派を追及するために南フランスに異端審問所が設置され1232年に活動を開始した。従来の司教たちが審問を行う形に替えて、教皇が直接任命した異端審問官が各地を回って異端審問を厳密に実施するようになった。このような形式を整えたのは当時の教皇グレゴリウス9世であり、異端審問官は当時学問の盛んな修道会として知られたドミニコ会員から任命されることが多かった。グレゴリウス9世による異端審問は1234年にはスペイン、1255年には北フランスへと広がり、アルザス、ラインラント全域に恐怖と怒りを引き起こした。その後、14世紀にはオーストリアに異端審問所が設置され、多くの異端者が迫害された。 当時の異端審問がどのように行われていたのかを知るための資料としては1307年から1323年までトゥールーズの異端審問官を勤めたベルナール・ギー(仏: Bernard Gui、羅: Bernardus Guidonis ベルナルドゥス・グイドーニス)の著した『異端審問の指針』、1376年ごろに、スペインの異端審問官だったニコラウ・エメリコが記した「異端審問の指針」などから知ることができる。この2冊は異端審問の教科書的存在で、特に後者の本については何度も印刷され、200年以上経った1607年にも再印刷されている。なお、ギーの『異端審問の指針』に関しては、この本が登場する前から、かなりの異端審問官が書いた多くの異端審問の手引書が土台となっている。この中で知られているのが、1240年代前半に、タラゴナ大司教ペドロ・ダルバラの命令によってペーニャフォルテが執筆した『ペドロの助言』、1240年代末から50年代初頭にかけて、2人の異端審問官ギヨーム・レモンとピエール・デュランが書いた『ナルボンヌの訴訟手順』、13世紀後半の作者不詳の『異端審問について』である。 この種の異端審問制度はドイツやスカンジナビア諸国など北ヨーロッパへも拡大していったが、ほとんど定着せず、場所によってはより穏健な形のものに変容していった。また、イングランドでは異端審問はほとんど行われなかった。中世の異端審問がどれほどの規模で行われたのかは正確に知ることは困難だが、現代の人々が想像するほど頻繁に大人数の処刑が行われたとは考えにくい。記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233年に南フランスの異端審問官に任命されたロベール・ル・プティは数百人に火刑を宣告したが、刑罰が過酷すぎるという理由で1年目で解任された。有名なベルナール・ギーは異端審問官を16年間の長きに渡って勤めたが、死刑を宣告したのは40件に過ぎなかった。
※この「中世の異端審問」の解説は、「異端審問」の解説の一部です。
「中世の異端審問」を含む「異端審問」の記事については、「異端審問」の概要を参照ください。
- 中世の異端審問のページへのリンク