太平記との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた。このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している。 たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえているし(但し、進藤俊式は小山良師とともに討ち入り反対の立場をとる)、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促しているし、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある。 また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし、室鳩巣も大石を楠木正成に例えている。ただし『易水連快録』では、「長矩ハ益ナキ事ヲ仕出シ申サレ候へバ、先祖末代マデノ不義ニト唱へケル」とあり、長矩の刃傷(私怨での勅使饗応の放棄)は不義の極みという世論も唱えられたと記している。 泉岳寺では、吉良義央を楠木正成に、首の返還先の吉良義周をその子正行に喩えている。「高家とて人にこそよれ吉良どのの 偽りもなき上野が首」(『白明話録』)は湊川で討死した正成の首をその子正行に送った時に「疑いも人にこそよれ正成が 偽りもなき楠木が首」と詠んだ故事(『太平記』巻第十六)に倣っている。(「首ヲ送リシ心ヲ真似テ詠ム」)
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