太平王朝を建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 10:00 UTC 版)
その後、趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、明確に自立を標榜した。武陽県令杜淑・別駕張粲・別駕張亀・西夷司馬龔尼・江原県令費遠らを左右の長史・司馬・参軍に、臨邛県令許弇を牙門将に据えた。また広漢郡太守張微・汶山郡太守楊邠・成都県令費立を軍祭酒に任じた。諸王の官吏も招聘したものの、従う者はいなかった。その他の役人も独断で配置し、郡太守や県令を入れ換え、太平元年と改元した。 流民の頭首である李庠らもまた配下の李含・任回・上官惇・上官晶・李攀・費佗と氐族の苻成・隗伯・董勝らを始め4千騎を伴って趙廞に従った。趙廞は李庠を犍為郡太守から威寇将軍に移し、陽泉亭侯に封じ、自らの腹心とした。李庠は趙廞へ漢の国号を称するよう勧めたという。
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