益州へ赴任とは? わかりやすく解説

益州へ赴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 05:48 UTC 版)

羅尚」の記事における「益州へ赴任」の解説

300年11月益州刺史趙廞益州反乱起こし太平王朝を建立した。羅尚はこの報を聞く上表して「趙廞には雄才が無いので、必ずや乱は失敗するでしょう我等はただその報告待てばよいでしょう」と進言した。 果たしその通り反乱失敗すると、朝廷羅尚評価して平西将軍益州刺史西戎校尉任じ趙廞後任とした。こうして羅尚牙門王敦東晋王敦とは別人)・上庸都尉義歆・蜀郡太守徐倹広漢郡太守辛冉初め千人余り伴い、蜀の地へ出発した当時益州には略陽天水初め雍州6郡の民が避難してきており、趙廞の乱鎮圧したのは流民首領である李特であった李特羅尚到来聞き、自らの処遇がどうなるのか非常に不安になり、弟の李驤派遣して羅尚出迎えさせ、珍品宝物貢いだ羅尚はこの出迎え大い喜び李驤を騎督に任じたまた、李特は弟の李流と共に牛肉や酒を携えて綿竹まで出向き羅尚慰労した。この時、王敦辛冉は共に羅尚へ「李特らは流民であり、盗賊業としておりました急ぎ除かなくてはなりません。何か理由を見つけて処刑するべきです」と訴えたが、羅尚はこの進言を容れなかった。 301年3月羅尚成都入城した。この時、汶山羌族反乱起こしたので、羅尚王敦派遣して討伐命じたが、王敦返り討ち遭って戦死したその後朝廷益州にいる流民達を秦州雍州連れ戻す様に通達出したが、李特配下閻式羅尚の下へ幾度も派遣し帰郷を秋まで延期するよう請うた。羅尚は彼らから賄賂受け取った事もあり、申し出受け入れて延期許可した辛冉流民殺してその資財奪おう目論んでおり、侍御史と共に羅尚へ「流民共は趙廞の乱乗じて略奪行いました関所設けてこれを取り返すべきです」と偽りの進言をした。羅尚はこれを信用し梓潼郡太守張演に手紙送り秦州雍州帰る途中要所関所設け流民財産調べさせるよう命じた。 しばらく経ち羅尚従事李特の下へ派遣し流民達へ7月までに故郷へ帰るように勧告した李特は再び閻式派遣し、秋の収穫が終わるまで退去期限延長してもらうよう固く要請した辛冉苾がこれに反対し、逆に別駕杜弢流民帰郷1年待つよう進言したが、結局は羅尚辛冉らの意見賛同した杜弢はかつて羅尚により秀才推挙され人物であったが、その時推薦書返上すると、辞職して家に帰ってしまった。 その後李特はまたも閻式羅尚の下に派遣し期日を延ばすよう頼んだ羅尚閻式へ「我は少し寛大な処置執ることも考えている。汝は戻り、このことを流民たちに告げて落ち着かせるように」と告げたが、閻式は「明公羅尚)は妄説惑わされており、おそらく寛大な処置というのは難しでしょう流民達は確かに弱い存在ですが、決し軽視すべきではありません。いま彼らにきちんとした道理もなく催促すれば、民衆怒り抑えがたく、少しの禍では済まなくなります」と忠告した。これに羅尚は「我もそのこと良くわかっているつもりだ。少なくとも君達を騙すような真似はしない分かったらもう出発しなさい」と言った。だがこの時既に、辛冉独断要所囲い設けて流民捕らえ準備をしていたので、閻式羅尚言葉鵜呑みにせず、李特変事備えるよう進言し、李特もこれに同意した

※この「益州へ赴任」の解説は、「羅尚」の解説の一部です。
「益州へ赴任」を含む「羅尚」の記事については、「羅尚」の概要を参照ください。

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