益州へ赴任
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300年11月、益州刺史趙廞が益州で反乱を起こし、太平王朝を建立した。羅尚はこの報を聞くと上表して「趙廞には雄才が無いので、必ずや乱は失敗するでしょう。我等はただその報告を待てばよいでしょう」と進言した。 果たしてその通り反乱が失敗すると、朝廷は羅尚を評価して平西将軍・益州刺史・西戎校尉に任じ、趙廞の後任とした。こうして羅尚は牙門将王敦(東晋の王敦とは別人)・上庸都尉義歆・蜀郡太守徐倹・広漢郡太守辛冉を初め七千人余りを伴い、蜀の地へ出発した。 当時、益州には略陽・天水を初め雍州6郡の民が避難してきており、趙廞の乱を鎮圧したのは流民の首領である李特であった。李特は羅尚の到来を聞き、自らの処遇がどうなるのか非常に不安になり、弟の李驤を派遣して羅尚を出迎えさせ、珍品宝物を貢いだ。羅尚はこの出迎えを大いに喜び、李驤を騎督に任じた。また、李特は弟の李流と共に牛肉や酒を携えて綿竹まで出向き、羅尚を慰労した。この時、王敦・辛冉は共に羅尚へ「李特らは流民であり、盗賊を業としておりました。急ぎ除かなくてはなりません。何か理由を見つけて処刑するべきです」と訴えたが、羅尚はこの進言を容れなかった。 301年3月、羅尚は成都へ入城した。この時、汶山の羌族が反乱を起こしたので、羅尚は王敦を派遣して討伐を命じたが、王敦は返り討ちに遭って戦死した。 その後、朝廷は益州にいる流民達を秦州・雍州へ連れ戻す様に通達を出したが、李特は配下の閻式を羅尚の下へ幾度も派遣し、帰郷を秋まで延期するよう請うた。羅尚は彼らから賄賂を受け取った事もあり、申し出を受け入れて延期を許可した。 辛冉は流民を殺してその資財を奪おうと目論んでおり、侍御史李苾と共に羅尚へ「流民共は趙廞の乱に乗じて略奪を行いました。関所を設けてこれを取り返すべきです」と偽りの進言をした。羅尚はこれを信用し、梓潼郡太守張演に手紙を送り、秦州や雍州に帰る途中の要所に関所を設け、流民の財産を調べさせるよう命じた。 しばらく経ち、羅尚は従事を李特の下へ派遣し、流民達へ7月までに故郷へ帰るように勧告した。李特は再び閻式を派遣し、秋の収穫が終わるまで退去の期限を延長してもらうよう固く要請した。辛冉・李苾がこれに反対し、逆に別駕杜弢は流民の帰郷を1年待つよう進言したが、結局は羅尚は辛冉らの意見に賛同した。杜弢はかつて羅尚により秀才に推挙された人物であったが、その時の推薦書を返上すると、辞職して家に帰ってしまった。 その後、李特はまたも閻式を羅尚の下に派遣し、期日を延ばすよう頼んだ。羅尚は閻式へ「我は少し寛大な処置を執ることも考えている。汝は戻り、このことを流民たちに告げて落ち着かせるように」と告げたが、閻式は「明公(羅尚)は妄説に惑わされており、おそらく寛大な処置というのは難しいでしょう。流民達は確かに弱い存在ですが、決して軽視すべきではありません。いま彼らにきちんとした道理もなく催促すれば、民衆の怒りは抑えがたく、少しの禍では済まなくなります」と忠告した。これに羅尚は「我もそのことは良くわかっているつもりだ。少なくとも君達を騙すような真似はしない。分かったらもう出発しなさい」と言った。だがこの時既に、辛冉は独断で要所に囲いを設けて流民を捕らえる準備をしていたので、閻式は羅尚の言葉を鵜呑みにせず、李特へ変事に備えるよう進言し、李特もこれに同意した。
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