益州南部の平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担った。 諸葛亮は孫権が劉備の死を聞けばおそらく異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆、王朗、陳羣、許芝のほか同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に『正議』を発表して彼らを批判した。 劉備の没後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしていたが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡をことごとく平定した(南征)。この地方の異民族に漢代を通じて始めて税を課す事に成功して財物を軍事に充て、蜀の財政は大いに潤った。この時、七縦七擒の故事があったといわれるが、本伝には見えない(詳しくは「孟獲」の項を参照)。12月に諸葛亮が成都に帰還すると南蛮は再び反乱を起こし、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、李恢が兵を率いて反乱を鎮圧した。その後、建興9年(231年)に死去した李恢の後任として張翼が赴任するが、建興11年(233年)には南夷の豪帥であった劉冑が反乱を起こしたため、朝廷は張翼を召還して馬忠を派遣し反乱を平定させている。
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