益州に赴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 10:00 UTC 版)
祖先は元々張魯に付き従っていたが、張魯が曹操の勢力に降伏して中央へ移された事に伴い、彼の祖先もまた家を趙の地に移したという。 趙廞は朝廷に仕官すると、やがて長安県令・天門郡太守・武陵郡太守を歴任し、揚烈将軍にも任じられた。趙王司馬倫からはその才能を高く評価されたという。 武陵郡太守時代には、後に良吏として名を馳せる事になる潘京の才能を見出して抜擢している。 296年、益州刺史・折衝将軍に任じられた。当時、雍州では氐・羌の大規模な反乱が起きており、趙廞は益州府へ命じて牙門馬玄・尹方を救援に向かわせた。併せて成都の米を軍糧として徴発し、鹿車で雍州へ送り届けた。 298年、正式に州府である成都太城へ赴任した。
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