劉備の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:12 UTC 版)
後漢末期、州牧設置を建言した劉焉が自ら名乗り出て益州に赴任し、現地の豪族の助力を得て地方政権を築く。194年、劉焉が死去し劉焉の四男・劉璋が後を継いで益州牧に就任するが、劉璋は暗愚だと評されていた。 207年頃、荊州牧・劉表の元に身を寄せていた劉備は諸葛亮を三顧の礼にて招き入れる。この時に荊州・益州を取って孫権と手を組み曹操を破るといういわゆる天下三分の計を説かれ、208年に孫権と共に赤壁の戦いで曹操を破り、209年に荊州南部の4郡を制圧した。
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