劉備に反逆する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 01:55 UTC 版)
荊州を守備していた関羽が北上し樊城を包囲すると、上庸の劉封と孟達も援軍を出すよう求められたが、これに応じなかった。このため、孫権軍の呂蒙の攻勢にさらされた関羽は敗北し、捕殺されてしまった。これを知った劉備は激怒し、劉封と孟達を憎むようになった。孟達は劉封との対立だけでなく、劉備からの処罰も恐れなければならない立場となったため、かくして劉備に対し「(申生(中国語版)・伍子胥・蒙恬・楽毅を例に挙げ)自分自身が同じような目にあってますます痛ましく思うようになりました。自ら房陵・上庸をお返しし、さらに辞任して自らに追放の処分を課すことにしました。『交際を断った後に相手を非難する発言はせず、君のもとを去る臣下は怨みがましい言葉を吐かない』(楽毅が燕王に別れを告げたときの上奏文に基づく)ものだと聞いております。臣は当然君子の教えを奉じておりますが、どうか殿下にもご努力くださいますように」と上表して別れを告げ、4千家を率いて魏に逃亡した。郤揖は孟達の営都督であったが、孟達に従って魏に降伏し、中書令史となった。 孟達が沛郡譙県に到達するや、その謁見に進む有り様はゆったりとして優雅であったため、注目しない者はおらず、将帥の才である、卿相の器であると評された。また、曹丕(文帝)は近くに外出しようとして輦(てぐるま)に乗った際、孟達の手をとり、彼の背中を撫でて「そなたはまさか劉備の刺客ではなかろうな?」とからかって言った。かくして共に輦に乗った。彼に対する待遇が余りに並外れていたため、曹丕の側近の中には孟達を妬んで讒言するものもいたが、曹丕は取り合わなかったという。 後に孟達は、曹丕から散騎常侍・建武将軍に任ぜられ、平陽亭侯に封じられた。また曹丕は、房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達に新城太守を担当させた。干宝の『晋紀』によると、孟達は新城に着任したばかりの頃、白馬塞に登って「劉封・申耽は、金城千里(広大な要害の地)を根拠地としながら、これを失ってしまった」と慨嘆して言った。 夏侯尚・徐晃と共に上庸を攻撃し、劉封を敗走させた。孟達は劉封に手紙を送って述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「肉親さえ仇敵に変わるのですから、まして肉親でない者はどうでありましょうか。あなたは漢中王(劉備)に対して行きずりの人に過ぎません。漢中王は心中すでに決断を下しており、あなたに対して疑念を生じております。側近たちは漢中王に讒言を吹き込むでありましょう。身を棄てて東方へおいでになり、羅候を継承なさるならば、親に背いたことにはなりません。北面して君主(魏の君主)に仕え、それによって国の大綱を正されれば、旧知を棄てたことにはなりません。我が陛下(曹丕)は新たに禅譲を受けられ、何の邪心もなく賢人の到来を待っておいでであり、徳によって遠くの者をなつき従わせています。あなたはこの機会に早く良計を定められるがよろしいでしょう。『易』に『大人(至高の位をもつ人物)を見るに利あり』とあり、『詩経』に『自ら多福を求める』とあります。用いるべきです」 しかし、劉封は孟達の言に従わなかった。後に劉封は、孟達に対する圧迫侵害と関羽を救援しなかったことを劉備に責められ、死を賜ることになった。この時に嘆息して「孟達の言を採用しなかったのが残念だ」といった。 曹丕が孟達を寵愛したが、劉曄や司馬懿は孟達を信の置けない人物と判断し、重用しないよう諫言している。 『傅子』にいう。曹操の時代に魏諷は高い評判をもっていたため、大臣以下皆彼に心を寄せて付き合った。その後、孟達が劉備から離れて曹丕に付くと、論者の内には楽毅の器量があると讃える者が多かった。しかし劉曄は魏諷・孟達を一見するや、いずれも謀反を起こすに違いないといった。結局その言葉通りとなった。 曹丕の没後に曹叡(明帝)が後を継ぎ、親友の桓階・夏侯尚も亡くなると、降将であった孟達は不安になり、今度は呉と通じようとしていたといわれる。
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